見出し画像

絶望できない絶望

人生に明るい未来がないってことを、そういえば最近思わなくなったなと思った。思わなくなったというよりも、思わないようにしていると言ったほうが正しい。そのことには少し前から薄々気づいていたんだけど、健全な精神をもっている風を装って、なんとか見ないふりをしてきた。
しかし、仕事でいつになく忙しくしていたそんなときに、自分はもう絶望できないのだとはっきりと自覚してしまった。絶望できないことに絶望してめまいがした。忙しいときって頭が回ってるときだから余計なことまで考えてしまう。よくない。

未来にはそのひとなりのありたい姿というような希望があって、でも今はそうなりそうにない状況にあるから絶望してしまうんではないだろうか。希望があってその希望が叶う可能性がまだあるから絶望できるのではと思う。しかし、この希望というのがわたしにはもう(あまり)ないのだ。だから絶望したら希望がない事実を突きつけられることになるから、とことん落ちてしまうことになる。

かといってべつに希望がないと嘆きながら日々生きているわけでもない。健康であることと、食べるに困らない+α程度の経済力を持ち続けていたいという希望はある。
でも若いときの希望ってそんなんではない。今の自分の希望がそう遠くもない未来に向かって真っ直ぐに伸び太さも変わらない線だとしたら、若いときの線はもっとあっちこっち曲がりくねっていたし、途中で分岐したり複線化、複々線化したり、だんだん太くなっていくものだった気がする。
要するに挫折も進路変更もあるけど、広がっていくイメージで未来を想像していたと思う(実際にそうなるかは別にして)。その想像した未来(=希望)が自分のなかにあるからこそ、安心して絶望できるのだと思う。

希望がもてない世の中とか言うけど、言い換えれば、みんながもっている希望が叶うとは思えない世の中なのだと思う。希望はあるけれど、今となんら変わらない(悪ければ悪化)生活をしなければならないことにうんざりしているのかも。
わたしも若いときは、今と変わらない生活をずっとしていくと思っただけでぞっとした。だから転職の回数も日本人の平均よりは多いし、住むところも趣味も友達付き合いもころころ変わった。
だけど今は、今と変わらない生活をしたいという気持ちが9割を占める。すっかり現状維持のひとになってしまった。

気を緩めると、自分の老後のことを考えてしまい、暗澹たる気持ちになることはある。物理的に孤独なおばさんは本気で絶望しても基本的にはひとりで対処しないといけないので、そうなったときのことを想像したら怖くて絶望もできない。
お酒を自然に飲まなくなったのも、一人で飲むと暗くなって内省的になるので、自分の希望のない人生を改めて想像したくないという無意識な理由のせいかもしれない。

希望があるから絶望するからといって、絶望という行為を甘えだと思っているわけでは決してない。
わたしは絶望することが多々あっても、結局なんとかなって今に至っている。だけど、渦中のときはなんとかなるなんて到底思えなかった。もうこのままなんじゃないだろうか、どうしようどうしよううわーと思っていた。
だから、こんなおばさんが上から目線でなんとかなるよと言っても(実際にわたしも親などから言われたことがある)、気休めにしかたぶん聞こえないだろうし、なんとかならない可能性だってゼロじゃないから無責任なことは言えないし、まあそもそも年上ぶったことを言うのが好きじゃない。

きちんと絶望することによって、じゃあ自分はこれからどうすればいいのかってことを考えて、なんとかしようとするだろうから、苦しいかもしれないけど目を背けるよりはいいと思う。見ないふりをしたり、妙なポジティブシンキングをする必要はないと思う。

ところで、絶望できないことに絶望した翌日に軽くメンタルが落ちたんだけど、幸いなことに肉体の調子がよいので、落ちた程度は軽く、夕方には復活した。ほんと肉体って大事。
メンタルの問題になるとストレスのケアばかり言われているけど、まずは(or同時に)肉体のケアも医師なりカウンセラーなりが指導したほうがいいんではと思う。余計なお世話だけど。

最近体調がいいというだけで温泉入ってふぃーとなってしまう種類の幸せを感じてしまうようになったのは、アクティブな希望がなくなった代わりに神様が与えてくれたものなのかも。それがせめてもの救い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?