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亀は駿足である

写真:IMDb

「俺の現実とおまえの現実は違う」
というようなことを、そのじいさんは言っていました。

一般的に、亀はのろまだということになっています(ウミガメはざんざん泳ぐみたいなので、ここでは除外)。
確かに、わたしら人間からしたら、かなりゆっくりとした歩みではあります。亀は人間より脚が短いから、歩みが遅いのは当たり前です。

でも、よく考えてみたら、脚の長さが移動のはやさと比例しているとも言い切れないですね。
カエルと亀は、脚の長さはどっこいどっこいかもしれませんが、カエルは飛び跳ねますから、亀より移動の速度ははやそうです。

アリは見るからにせかせかと早足ですが、あの小ささですから、亀と比べたら負けるような気もします。
でも、亀がアリと比べられることはあまりなく、そうやって亀は長年のろまの代名詞になっています。

でも、亀は自分がのろまだとは思っていないはずです。亀と話したことがないので確証はありませんけど、きっとそうだと思います。
むしろ、「俺、すっげー足はやい」くらいに思っている亀もいるかもしれません。

と書きながら、亀はそんなことすら思っていないような気もしてきました。
なぜなら、亀はリアリズムだからです。たぶん人間以外の生き物はすべてリアリズムだと思います。

「1、リアリズムとは、現実をそのままに理解しようとすること」
「2、リアリズムとは、現実をそのままに表現する手法のこと」
と、じいさんは辞書を引いて、「リアリズム」の定義を読んでくれました。ちょっと詳細は違うかもしれませんが、だいたいこんな内容でした。

ここでいうリアリズムは、定義の1番目のほうです。
現実をそのまま理解する亀は、勝手にウサギと比べて「俺ってのろま……」などと落ち込んだりしないんです。
人間からのろまと言われても、亀は言っている意味がわからないと思います。亀がことばを理解できる動物だったとしても、です。
のろまの概念が亀のなかには存在しないからです。

ところで、のろまとかのろまじゃないって何を基準に言うんでしょうか。
亀はウサギと比べたらのろま、カエルと比べてものろま、アリと比べたらそうでもないかもしれません。
はやいがあるから遅いがある、遅いがあるからはやいがある。
なのに、遅いことが「悪」だってだれが決めたんでしょうか。

陸上競技の長距離走とか短距離走では、足がはやいことがよいとされます。
職場などでは、仕事は遅いよりはやいほうが、(極端にミスが多くなければ)よいこととされています。
家庭では、大人の速度に合わせられない子どもに対して、親が「はやくしなさい」などと言います。
遅いことは、一般的によろしくないことになっています。

小学生の頃、短距離走が得意なかっこいい女の子がいました。
でも、その子は九九を覚えるのは遅かったし、家庭科の調理実習ではもたついていて、料理の得意な子から姑みたいにいびられていました。

その子がどう思っていたかは知りませんが、わたしだったらこの世の終わりくらいに落ち込んだかもしれません。
何もかもができないからって落ち込む必要はないのに。
計算が遅いことも、料理の手際が悪いことも、その現実をそのまま理解しておけばいいはずなのに。

「美しくない」があるから「美しい」が存在するなどと言われますが、だれが何をもって「美しい」とか「美しくない」を決めるんでしょうか。
一般的な基準はあるのかもしれませんが、最終的に決めるのは自分なんでしょう。
それなのに、わたしたちは美しいことも、はやいか遅いかも、自分ではなく周りを基準にしてしまって、それに見合わない自分を卑下するようになる。逆に、ちょっと強い状態のときは、自分の基準に見合わないひとを許せなくなってしまう。

現実をそのまま理解するといっても、理解のしかたはひとによっても状況によっても変わってくるんでしょうね。

「リアリズムとは、現実をそのままに理解しようとすること」であるならば、そして「俺の現実とおまえの現実は違う」のならば、あなたもわたしも他人の現実に合わせる必要はないし、他人の現実を侵害する必要もない。
そうやって生きているから、亀にはのろまの概念はないんです、たぶん。

……てなことを映画「ラッキー」を観て感じた次第でございます。


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