見出し画像

その中間にあるもの

子どものころ、ひとには見えないものが見えることがありました。
といっても、おばけとかそういった類の、そこのスペースを占めているようで占めていないといったものではありません。
見えていたのは、現象としてそこに発生していたものです。わたしの頭が正常ならば、ですけど。

正月早々なに言ってんだ、祝い酒の飲みすぎかと思われるかもしれませんが、まあ多少そういうこともあるやもしれませんが、いえ、ありません。

たーくんは、幼稚園の同期です。
あじさい幼稚園は、わたしたちが入園するまで年少組というのがありませんでした。
わたしとたーくん、それにチャコちゃんの3人が、あじさい幼稚園年少組の栄えある第一期生でした。
たった3人ですから、時には年中さんたちと一緒に授業(っていうんですかね)を受けたりもしていたんですが、だいたいはみんなで園長室にこもって、おばあちゃんのように優しい園長先生とこたつでみかんを食べながら、のんびりと遊んだり絵本を読んだりするといったことが日常でした。
いい時代でしたねえ。今じゃ考えられません。
って話がそれちゃいましたけど、そうそう、たーくん。

その後、たーくんとは中学校まで一緒で(チャコちゃんは学区が違ったので、卒園と同時にお別れしました)、同じクラスになることもあればならないこともありました。
幼なじみとはいえ、いや幼なじみだからこそでしょうか、小学校に入って以降、たーくんと話すことはまったくありませんでした。

異性に興味をもちはじめる年齢になると、たーくんはわりにモテるようになりました。
たーくんはとりたててイケメンというわけではないのですが、いつの間にかクールな男子になっており、そんなところが女子たちには魅力的なようでした。
悪目立ちすることもなく、スポーツもできる方だったし、勉強は中の中くらいだったと思いますけど、勉強ができすぎてもかえってモテないってこともありますから、つまりたーくんはモテる条件としてはちょうどよいものを持っていたんでしょうね。
親しい友達の中にも、子どもなりにではありますが、たーくんに異性として好意をもっている子が何人かいました。

でも、わたしはたーくんが好きじゃありませんでした。そのことは、誰にも言えませんでした。
人間ですから、誰もが彼のことを好きというわけではなかったとは思いますが、少なくとも悪い評判はわたしの耳には入ってきませんでした。だから、彼の正体を知っている人はいないんだと思っていました。
だから、彼のことを好きじゃないなのは自分が変なのだと思い、誰にも言えませんでした。

たーくんは、人を押しのける子でした。比喩的にではなく、本当に人を押しのけるんです。
自分が前の方に行きたければ、黙ってぐいと人を押しのけて、あるいは片手でひとをはらうようにして、行きたい方に行く。きっと火事や大地震が起きたら、真っ先に逃げちゃうんだろうなと思います。
幼稚園の頃は、人のことを好きだの嫌いだの思う感情自体がありませんでしたし、彼の行動も目につきませんでした。
ですが、彼の行動は、年齢が上がるに従って目につくようになり、気がつけばわたしは彼のことが好きじゃないと思うようになっていました。

不思議と誰も彼のそうした行動に気づいていないようなのです。友達からも、親からも、誰からもそういう話を聞いたことがありません。
小学生も学年が上がれば、あいつはあーだ、こいつはこーだと、無邪気な悪口が増えてきます。それでも、たーくんのそうしたネガティブな話題は一向に出てこないのです。

こうして、自分にしか見えていないと思われる他人の行動を、たくさん見るようになります。
たーくんなんてかわいいもんです。学年一の秀才くんがカンニングしているのを見たときはビビりました。
この調子だと、万引きする教師とか、ロリコンの僧侶とかに出会っても不思議はないのですが、そういうことがなかったのは不幸中の幸いです。

なぜわたしにだけ見えるのか。あるいは、なぜ、その他の大多数のひとには見えないのか。
考えられるのは、わたしの価値観がそうさせるということです。
たとえば、わたしは人を押しのけてはいけないと思っています。だから、たーくんの行動が不自然に思えるのです。
でも、ひとを押しのけて何が悪いという考えであれば、たーくんの行動は当たり前すぎて自分には見えないわけです。
カフェかどこかで友人と向かい合ってコーヒーを飲んだとき、相手がどんなふうにコーヒーを飲んでいたかなんて覚えちゃいないのと同じです。英国王室ばりにものすごく上品なふるまいであったか、粋なそば食いのような音を立てて飲んでいるのかのどちらでもない限り、です。
カンニングにしたって、「カンニングなんかあたしもやってるよ」ぐらいの鷹揚さでいれば、それを一生自分の胸だけにしまっておくなんて苦しみを味あわなくてもすむのです。カンニングなんかどうでもいいわけです。もっと言えば、ひとのことなんてどうでもよくなるのです。

あれから何十年もたち、もう今年は2018年ですけれど、今となってはそういったひとの後ろ暗い行動を、わたしは自ら見ようとしているような気がいたします。見えてしまっているのではなく。
このあら探し的な性格に、真面目なわたしはずいぶんと悩んだものです。だって見たくもないものを勝手に見て、その結果腹が立つわけですよ。
ひとの悪いところばかりを好き好んで見ているくせに、勝手に腹を立てて、腹を立てたことに対して心臓発作になったときのような(なったことないけど)胸をかきむしるような苦しみを味わうんでです。

でも、見えちゃうし、見ちゃうものはしょうがない。
この際なので、それを自分の特異能力であることにして、裏を徹底的に暴いてやることにしようかと思っています。裏だけでなく、中間も暴いてやることにします。
すなわち善の裏にある悪だけでなく、善と悪の中間にある何か、正の裏にある不正とそれらの中間にある何か、醜悪、および美と醜悪の中間にある何か、利他の裏の利己とその間、慈愛と冷酷……、それらを徹底的に暴いてやることが、わたしの使命のような気がいたします。おほほほほ。って、しらふですよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?