見出し画像

20年前の映画を観てたらなんだか泣きたくなった

本日のBGM:

こんな面白い映画観たことなかった。

今はなきホテル西洋銀座と同じ建物にあった映画館でこれを観た。もう20年ほど前のことだ。

当時、中国語圏の映画にはまっていた(カンフーとかキョンシーとかサモ・ハン・キンポーとかは除きます)。でも、ウォン・カーウァイという名前は、この映画を観るまで知らなかった。

あちこちにしかけられた布石とか、ひとによってはあざとく見えるかもしれないカメラワークが新鮮だった。
と言いたいところだが、当時のわたしにはそんなことはわからない。でも、このエネルギーに満ちた斬新な映像から目が離せなかった。

かなりありのままな美しいとは言えないバスルームとか、盛り付けが適当な屋台のご飯とか、ぜんぜんおしゃれじゃないデリカテッセンもどきの店とか。
話の内容よりも、こういったリアリティにも釘付けになった。リアリティにエネルギーを感じたのだ。

登場人物はどいつもこいつもイカれていた。
社会に出る第一歩で失敗し、劣等感にまみれていたわたしは、このひとたちのように生きられたらどんなにいいかと憧れた。
同時に香港に憧れた。あのエスカレーターに乗りたかった。バスルームが汚くてもいいから、あの昭和っぽいクッションフロアのアパートに住んでみたかった。屋台の、肉がご飯に乗っかった、なんとか飯というのを食べたかった。

あの頃はトニー・レオンとか金城武のかっこよさがわからなかったけれど、
フェイ・ウォンのかわいさと、着ている服がやたらと気になった。
彼女みたいに香港に住んでみたかった。

今、Bunkamuraでウォン・カーウァイ特集が開催されている。先だって、そこで彼の監督作品の中で一番好きなものを観てきた。
西洋銀座の映画館で初めて観て以来、ビデオでも何度も観てきたけれど、DVDで観た記憶はないから、かなり久しぶりだと思う。

当時よりは多少細かいところを見られるようになって、当時気づかなかった布石に「おっ」と思ったりもしたが、監督の意図するねらいというのはぜんぜんわかっていないと思う。
わたしはどうひっくり返っても映画評論家にはなれそうにない。

でも、そんな「おっ」が出てくるようになってしまったせいなのか、初めて観たときのような衝撃的な感覚は薄れていた。何度も観たとか、話の筋を知っているということではなくて。

20年前のわたしは、スクリーンの中の彼らにかなり近づいていったと思う。自分が彼らに入り込んで疑似体験しているのでもなく、感情移入でもなく。
当時はいい意味で自分に「引きの視点」がなかったと思う。

期限切れのパイナップル缶を30個食べる警官を「面倒くさい男だな」と思ったし、自分の家が勝手に模様替えされても気づかないもう一人の警官のことは頭がおかしいと思った。
好きなひとの家に忍び込むベリーショートの女の子を愛おしく思ったけれど、金髪のおねえさんのことはよくわからなかった。
うまく言えないのだけれど、すごく近い距離でそんなことを思った。これが20年前。

いまのわたしは、このコンテンツの裏にあるもの、なにを伝えたいんだろうみたいなことを一生懸命探してしまう。引いてしまっているのだ。よく言えば客観的?
そんなことしたところで、わたしなんぞに映画のなにがわかるわけでもないのだから、無駄なことなんだけども。

そんな浅はかなことをしつつ、映画を観ながら20年前のことをいろいろと思い出してしまった。
映画そのものにまつわる思い出とは関係なく、この映画とともに自分個人のいろいろなものがフラッシュバックのように現れては消えた。
20年で自分の中のいろんなものがかなり入れ替わったのだと思った。ちょっと感傷的になった。

その入れ替わりというのは、(同じ人間だから当たり前なんだけれど)ごっそり入れ替わることはなくて、100年以上つぎたしながら守ってきたうなぎのタレのように、ベースは残っているんだと思う。
つぎたしを重ねることで味に丸みや深みが出る。けれども、その分、微生物だか細菌だかそんなものも増えていって、それはもちろん害のないものなんだけれど、純粋さは薄れていく。

あの頃と同じ気持ちで映画を観ることはできない。それが年月がたつとか歳を重ねるとかはたまた成長するということなんだろうか。

観た映画:恋する惑星(重慶大厦)

そうは言っても、やっぱりフェイ・ウォンは今見てもかわいかったし、彼女のファッションも古さを感じさせなかった。
あのエスカレーターにも乗りたいし、肉のせご飯も食べたい。そんなふうに思うところはぜんぜん変わってなかった。
トニー・レオンはめっちゃいい男と思うようになったのは、「成長」と言えるんでしょうかねえ。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?