見出し画像

迷いあり人生のほうが楽しいかも

銀座あたりには昭和っぽいおじ(い)さんがまだごろごろいる。背広(これも昭和っぽいシルエット)を着ているからまだ働いている年齢らしいけど、たぶん「顧問」みたいな、いてもいなくてもいいみたいな存在かも(想像)。
彼らは60歳代後半から70歳代前半くらいだと思うんだけど、そうすると、わたしから見たら親世代ではなく、叔父さんくらいの年齢差だと思う。だけど、その姿は何十年も前から見ていた70歳くらいのおじ(い)さんと変わらない。いつまでたっても近づけないおじ(い)さんたち、いつまでたっても○○歳のつもりの自分。
60代なんていったら、10年後には自分も60歳なのに、いつまでたっても彼らは何十年も前に見ていた「おじ(い)さん」「おば(あ)さん」という遠い存在なのである。
不思議なことにほんのちょっと前までは、70歳くらいのひとを見ても、もはやおじいさんとは思えず、せいぜいおじさん、ひとによってはおにいさんくらいに見えていて、ああわたしも歳ねなんて思ってたのに、年齢とともになぜか逆行している。

反対に下の世代を見れば、こちらはほんの数年前まではそっちグループに近いかなと思っていたけど、気づいてみれば保育園の送り迎えをしているひとたちなんて、もう自分の子どもであってもおかしくはないのだ。
ということを自分に言い聞かせていたおかげか、そっちグループに近いとは思わなくなった(子どもとも思えないけど)。年上のひとたちとは隔絶を感じるし、宙ぶらりんである。
いや、べつに宙ぶらりんでいいし、どこの世代・年代グループに入らなければいけない必要性はないし、そんなグループ分けも意味がない。

といいつつ、なんで最近年齢のことばかり言っているのかというと、節目的な数字の年齢になったということもあるし、自分も含めひとの年齢がわかるようになってきたからというのもある。

どんなにきれいにお化粧をしててても、髪の分け目や顔の大きさなどからおおよその年齢はわかってしまうし、姿勢が悪くても太ってても、その歩きかたや手などからまだまだ若いんだなとわかる。
こういうのむっちゃ感じ悪いけど、自分の老化が目に見えてきたからひとの老化もわかるわけで、ビルのガラスの扉に映った自分の姿や、いつもとちがう鏡の前で見た自分の姿を見て、どこのおばさんだろうと思って自分だと気づきぎょっとするのだ。
どんなに姿勢をよくしていたって、体一つ一つのパーツのフォルムや動かし方、その総合的な雰囲気とでも言えばいいのか、そういうことが年齢を感じさせる。

多少よれた服を着ていても、髪の毛が(わざとではなく)はねていても、肉体が若ければ、身なりに気を使わないひとなんだなというレッテルは貼られるかもしれないけど、それほどみじめったらしくは見えない。だけど、歳を取るとその貧相さが際立ってしまう。
肌がきれいねと言われてきたので、5、6年前に化粧をやめた(眉毛だけ描いている)のだが、在宅勤務だったあるときオンラインミーティングで画面に写った自分の顔を見たとき、うわー、寝起きかこれ! と思った。
洋服なんかも、断捨離が趣味なのでさっさと捨ててしまう一方で、気に入ったものは何年も着てしまうけど、こなれてきた感とみずぼらしいの境目が微妙になってきて、もう何シーズンも着るのはやめようと思った。今日も気に入っていた白いシャツを捨てた。シミもなにもないけど、全体的にくたびれた白っていうのわかりますかね、白は難しいと言われる理由がようやくわかった。
なので、清潔感のある身なりにしようというのが、節目の決心。

*****

今までは年齢を気にしたこともそれほどなかったし、聞かれたら堂々と「49歳です!」とか答えていたけど、それを超えた最近は、年齢の話を振られたらどうしよくあと考えるようになった。
「50歳です!」とか言ったら微妙な哀れみの目で見られるような気がするのと、なんか古い世代のひとって思われそうな気がする。それも思い込みと自意識過剰なんだけど。
「40代」ってけっこう便利なことばだったけど(40歳と49歳じゃかなりちがうけど煙に巻ける)、「50代」というのはもう煙に巻くことばではなく、「50代」でごまかす意味がない。

てなこと言ってきましたけど、自分が成熟していないこともあり、根本的には年齢を理由に「もうこれでいい」とか、なにかをあきらるといった気持ちはあまり強くない。
仕事の野心はすっかり蒸発してしまって、仕事は稼ぐ手段としか思えなくなったけど、いくつになっても働くことをやめたいとも思わない。お金は必要。

昔はおじ(い)さんたちを見て、あれくらいになれば迷いってなくなるんだろうなと思ってたけど、そうじゃないかもしれないと最近思う。
迷わない、自分が完全に正しい、と思ったら、人間的には詰んだことになりはしないか。
迷いってものはあったほうが苦しくも楽しい。だって迷いがなくなったら問いも生まれてこなくて、じゃあなに考えて生きればいいの? って思う。
常に自分のやっていることが正しいのかどうか疑うほうがいい。鍋つかみの置き場所を変える程度のほんの1ミリのことでもいいから、いや、もうちょっとマシなことも含めて、死ぬまで修正しながら生きていきたいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?