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困ったな問診票

そんなわけで、医者巡りをしているわけだけど、初診の際に書かされる問診票に困っている。

「外食は多いですか」
「便は毎日ありますか」
「眠れていますか」
診療科によって多少異なるけど、だいたいこういった類の質問が並んでいる。これに困っている。

たとえば外食が多いか少ないかという基準はひとによって違うと思う。平日は毎日昼食を外で食べているのはわたしにとって、1日1回の外食は普通のことだけど、毎日お弁当を作るなどして3食自炊しているひとは多いと感じるだろう。

排泄については、わたしの場合はほぼ週替わりのコンディションなので、毎日快便という期間もあれば、むむむ、もう3日も……という期間だってある。というようなことも補足として書こうかなと思うのだけど、そんなスペースはない。例外なく365日同じ状況のひとなんているんだろうか。

就職のときにやったなんちゃらテストとかも、どれに○をつけるべきか迷うことが多かった。「自分は努力する」という質問に「はい」か「いいえ」でふつう答えられるものなんだろうか。どんなに努力家でも、興味のないものや、やっても自分にとって意味のないものに自主的に努力するひとはいないだろうし、たとえ自主的に努力しようと思ったものでも、ぜったいに成し遂げるんだと努力を続ける場合もあれば、なんらかの事情で見切りを付ける場合もある。
っつーか、努力ってどういう行為のことを指してんのよとも思う。ひとから見て努力とされる行為に見えても、本人はぜんぜんそんな意識なかったりもするでしょ。
てなことを思うから、けっきょく「どちらでもない」に○をつけたくなるんだが、それはよくないという話を聞いていたので、適当に「はい」か「いいえ」に○をつけていった。

話は問診票に戻るけど、食事の回数や睡眠時間など客観的な数字に変換できるものは質問のしかたを変えつつ、時と場合によることもあるので、幅をもたせてくれたほうが答えやすいんだけど。

主観的である痛みやかゆみの方は、感じ方が全員一様ではない。わたしは注射や血抜きのときはいい年をしていつでもひぃ〜となるのだけど、そんなのへっちゃらというひともいる。
それが我慢強さとか気持ちの表し方の差なのか、知覚の違いなのか、知覚は同じで物理的な痛みの度合いが違うのか。他人の痛みを同じように味わうことは不可能なので、痛みにもだえているひとがどれだけ痛いのかは一生わからない。

ひとの感情も同じで、あるできごとに対してどう感じるかはひとによって違う。
数ヶ月前にわたしは肉親をなくしたのだけど、そのあとで原因がわからないゆるい体調不良が続いた。肉親が亡くなったことに対してわたしは驚きはしても悲しみは抱いてはいないのに、この体調不良と肉親をなくした悲しみによる精神的ショックをどうしても結びつけたいひとがいた。説明しても話はもとに戻ってしまったり、強がっていると思われたりするので、とにかく面倒くさいからそういうことにしておいた。

もしうちの猫が死んだら、わたしは悲しくて1週間は立ち直れないかもしれないと常々思っているので、飼い猫が死んでしまったひとに対して、「おつらかったでしょう!」と手を握って悲しみを分かち合いたくなる(やらないけど)。でも相手が意外にもけろっとしていると、冷たいひとなんだろうかとか思ってしまう。
でもそのひとはなんらかの手立てでもう悲しみを消化した段階なのかもしれない。あるいはほんとうに悲しくないのかもしれないけど、べつにそれが悪いことではない。悲しみを表すだけが悼みじゃないと思う。

そうやってひとは他人の知覚や感情などを自分のバロメーターで測ってしまう。だけど、ひとによる差だから放っておいたほうがいいことと、そうじゃないことの両方があると思う。
あることをどのようにとらえるかということが無知や経験不足によるもので、それが周りに与える影響が深刻なことだったら、望ましいと思われる方向はこっちかもよと教えてあげることも必要だ。
悪意はなかったけど、知識がなかった故にある行為が犯罪となってしまうことがあれば、逆に知識や経験がないから必要以上に深刻になってしまうこともある。

そんなことがあるから教育っていうものがこの世に存在するのかも、と思った。だけど、少なくとも義務教育の間には、考え方を押し付けられたような記憶しかない(日本の義務教育のシステムがマッチするひとも、もちろんいた)。

こんなことばっかり考えてるので、わたしは教育はもちろんのこと、ちょっとした仕事の指導もできないし、したくもない人間になってしまった。
だから「おれの考えは正しい」となんの疑問もなく自信をもって言えるひとが、皮肉ではなくうらやましいし、やはりこの世は言ったもん勝ちなのだと思っている。

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