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フェイスブックをお休みしてみた結果

ある日突然「飽きた!」と激しく思い、フェイスブックを3カ月くらいお休みしている。メッセンジャーは使うけど、投稿や閲覧はしない。

よく言われるような、フェイスブックでの友人のリア充自慢が嫌でお休みしているわけではない。
友人が子どもとシャンシャンを見に上野に行こうが、熟年結婚して新婚旅行でハワイ豪華リゾートに行こうが、「いいねえ~」と、あたたかい眼差しで眺めているだけだ。

そんな投稿いちいちをリア充アピールだとか言うひともいるみたいだけど、投稿する側には、ネガティブなことをあえて知り合いに見せないという気遣いがあるんだろうと思う。
楽しいことを投稿してくれるのはぜんぜん構わないし、そんなことにぜんぜん嫉妬しない。「いいね!」ボタンを押すかどうかはべつだけど。

だけど、たまに「もややっ」とすることが、正直に言えば、あった。
上野やハワイではなんとも思わないけど、自分がもたもたと行動できないでいる間に、その誰かはどんどん先に行って、こっちはおいてかれてしまったようなとき「もややっ」が発生した。

なんとなくうまくいかない時期も必ず終わることは経験上わかっているし、終わってもまた始まっちゃうことがあることもわかっているし、自分が動かなきゃ何も始まらないこともわかっちゃいる。
だから動けばいいだけなのに、それをしないで、外ばっかり見てはため息をつき、判断基準を外に求めては自分にダメ出しをする。

そんなネガティブな状態のままで、動こうとしないまま、それでものごとがうまくいけばいいと思っている。そんなのありえないと思いつつ、そう思ってしまう。
占いとかカウンセリング系に走る悩める30代・40代が多いのもわかる気がする。

唐突だけど、たとえば「世の中のひとを幸せにする!」っていう思いは、素晴らしいことだと思う。
そのざっくりとした思いを実現させるための手段はたくさんある。だけど、自分の外側が基準になると、世間的に「貢献」の意味合いが強い仕事や職業を目指しがちだ。それこそカウンセラーのような、直接ひとにはたらきかける仕事に限定されてしまう。
だけど、ひとを幸せにするために居酒屋をやったっていいわけだし、植木屋でも、プログラマーでもいいわけだ。俺様基準ってだいじ。

今は「頑張るべきだ」と「頑張らなくていい」が同時に存在するし、「老後のために貯金しろ」と「お金は使わないと貧乏になる」が同時に存在するような世の中だ。わたしのようなへなちょこはどっちにつけばいいのか翻弄されてしまう。

フェイスブックをお休みしてみた結果、その分だけ他人が決めた価値観や正しさが減った。そうしたら、じっくりと自分とお話しできるようになった。

自分自身がいいね!と思うことをしようとするのなら、そして情報に翻弄されないという自信がないのなら、フェイスブックをお休みしてみるのもいいかもしれない。

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