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習慣化と言語化


習慣化は意思の力ではなく、できるようなしくみをつくることが有効とされるし、わたしもそれに同意する。でも、○○を習慣にするという意思はやはり必要だと思うし、わたしの場合は実際に意思が有効にはたらいてると思う。

意思の力がどこで必要になるかというと、やろうと決めたことをサボりたい気持ちが浮かんできたときだ。サボりたい気持ちをぐっと押し込めて行動するときに意思が必要な気がする。逆流に流されそうになるのを、筋肉を使ってぐっと踏ん張ってこらえるという感じ。筋肉が肉体を動かすように、意思が行動を促す。
習慣化したい○○を、ある程度の期間(一日や二日じゃないけど年単位でもない)踏ん張ってやり続けると、もうそれをしないと気持ち悪い状態になる。気持ち悪さというのは、○○をやらなかったときのことを想像したときに感じるものだ。
たとえば。以前はお風呂に入るのをぐずぐずと先送りにしていたけど(どうせ入るんならさっさと入ればいいのと自分でも思う)、夜ごはんの前にお風呂に入る(=帰宅即風呂)ことを習慣化したら、生活がかなり快適になった。ごはんを食べたらただでさえまったりしちゃうのに、皿洗いというミッションも遂行しないといけなくて、さらに力を振り絞ってお風呂に入るなんてことや、お風呂に入らずに寝てしまったときの翌朝のことを想像したぞっとして、もうとっとと入ります! という気持ちにならざるを得ない。

そんな習慣化のための力業を応用してネガティブな気持ちにならないようにすることもできた。ネガティブになるようなことを考えないとか、特定のネガティブフレーズを独り言でも言わないようにすることによって。言っても解決しないことは自分がどよーんとするだけじゃないですか。だから言いそうになったら筋肉で踏ん張って言わない。
でも気持ちを無理矢理ポジティブに変換しようとしたり、あるいはそもそも自分の中にはそんなネガティブな気持ちはございませんみたいになると自己欺瞞だけど、そこまで明るくまっすぐな人間じゃないし、ネガティブフレーズを言おうとしている自分のことは一応認識しているつもり。それを言語という形であえて表に出さないだけだ。

言語化するかしないかで気持ちは良くも悪くも変わってしまう。だれかと話をすることで自分でもわかっていなかったことが明確になることはよくある。相手も同じことを考えていることがわかって安心したりうれしかったりすることもある。でも言語化にはあまりよくない面もある。
中学生のときにちょっと気になる男の子がいた。自分の中だけにとどめておけばその感情は消えてしまったかもしれないが、友だちにその感情を言った途端にそれが自分の本当の気持ちとは関係なく言語化したものが勝手に盛り上がってしまったということがあった。
さらにもっとよくない言語化の例は、ひとが寄り集まって行われる悪口大会だ。何らかの理由であるひとを悪く思う気持ちをだれかと言語によって共有し、場合によってはそれが広がって、その輪の中にいるひとたちは気持ちを共有できて喜んでるけど、輪の外には悪影響しか与えない。そして悪口大会の対象となったひとの一挙手一投足が根拠なく気に入らなくなってしまい、それを悪口大会のメンバーと共有するようになる。
言語化によって「ちょっと気になる」が「恋」になってしまったり、「ちょっとあのひと変わってる」が「むかつく」になったりするので、その威力はばかにできない。
自分にも他人にも言わなくていいことは言わないようにしておくのが身のため。

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