見出し画像

「ジャッジしない」とはなんと窮屈なことか

いいの悪いのと決めつけちゃいけないよ、ってな話はよく見聞きします。
そういうことを言う人を、実際に目の当たりにしたこともあります。

いや、まあ、確かにいい考えだとは思うんだけどね。
「それよくない!」
なんてわたしが言っているそばから、
「いい悪いはないんですよ」
なんて仙人みたいな目をして言われても、結局いい悪いを決めつけてることになるんじゃないの? っておもてしまいます。

わたしが理解していないだけかもしれないけど、非二元論って結局二元論を否定しているんじゃないでしょうか。

「いい悪いはない」ってことを(無理やり)実践しようとすると、(わたしの場合)すごく窮屈だなって思います。
「あ、またジャッジしちゃった!」
「白って言っちゃったよ。ほんとは黒かもしれないのに!」
「いやいやいや、黒も白もないんじゃね?」
迷走することうけあいです。

それよりも
「あ、それでいいんじゃね?」
って思うほうがラクです。
「いいんじゃね?」っていう若者言葉がいまだに使われているかわからず、やや恥ずかしいのですが、こういうニュアンスなんです。

ジャッジしないのは、レベルが低い私には疲れることなんです。
同時に、がしがしジャッジしまくるのも疲れるんです。
どちらも結局は自分が楽しくないんです。

他者を自分の判断基準でのみジャッジすると、
「なんでえ、あのひとは!」ってキーッっとなります。

自分に対しても似たようなもんで、ジャッジという名のダメ出しを自分にすると、精神的にも肉体的にも引きこもりたくなります。
ビール飲んでおにぎり食べてから、布団かぶって3日間くらい亀になりたくなります。

人のことを許すことはできないけど、許さないと苦しくなります。
そもそも、こちらに迷惑が及んでこない限り、日常で起こるほとんどのことはわたしにとってどうでもいいことです。

そこに目くじらをたてる暇があったら、ほかのことをしたい。
でも、どうしても気になってしまうことはあるんです。
そこが悟っていないと言われる自分の俗っぽさです。

わたしは仙人にもお坊さんにもなれません。
修行なんかしません(できません、したくありません)。
人のために生きることもしません(できません、したくありません)。
自分が心地よく生きることを最優先するエゴ野郎です。

だから、
「いいんじゃね?」
と突き放す。

あなたのその考えが間違っていようが正しかろうが、わたしには関係ないから、「いいんじゃね?」
わたしのとったその行いが今ひとつだったとしても、それをやっちゃったことは取り消せないから、「いいんじゃね?」

そうやってわたしは身軽になっていくのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?