見出し画像

当たり前じゃないことが当たり前になるとき

ひとりラーメン。ヘーキ。
ひとり寿司。問題ありません。
ひとり呑み。居酒屋じゃなければOK(居酒屋ぎらい)。
ひとり焼肉。? そもそも焼肉なんて食べたくないし。

誰かと一緒じゃないと何もできないのは情けない、という謎の教育を母親から受けてきたわたしは、ひとりで何かをするという修行をけっこうな年数続けてきたみたいです。
その結果、ひとり飲食、ひとり暮らしにひとり旅が平気な人間になりました。
(よくよく考えてみたら母はひとり飲食はほぼしないし、ひとり暮らしはしたことないし、旅行にはいつも女友達ときゃっきゃとはしゃいで出かけている。そういう教育を受けたんじゃなくて、わたしが勝手に何かをそういうふうに解釈したんでしょう。やっぱり世界は思い込みでできている……)

とまあ、とにかく近年になって、自分の過度なおひとりさま傾向に気づき、誰かと一緒に何かをするということが得意じゃないということにも気づいたのです。
こういう人間って人に頼ることも苦手です。ひとりで頑張って勝手に疲れ果てるという繰り返しを、コントのようにやっていました。

それじゃあ誰かと一緒に何かをやってみよー! ってことで、先月は友人と一緒に小さなイベントをやってみました。
その感想? 特にありません。あ、まただと思います。やった後の感慨のようなものが残らない。わたしは何をやっても「やった感」がありません。

フェイスブックで、イベントやワークショップをやった後の投稿をよく見かけます。
網膜剥離を起こしそうなきらきらした集合写真とともに、「◯◯やりましたー! この場と参加者、サポートしてくれたみんなに感謝しかありません!」みたいなことがやや興奮気味に書かれています。
それ自体について、ディスるつもりは毛頭ありません。逆に、そんな彼らがうらやましいです。どうすれば、そんなにやり切った感を得ることができるのか、教えてほしいです。

知らない世界に飛び込むとか、何かチャレンジングなことをやるときって、「やろう!」と決める前までは思い切り感が満載なんです。だけど、いったん決意してしまえば、そこから後のプロセスはもう当たり前のことになってしまって、チャレンジすることではなくなってしまうのです。もちろん、やるという決断自体がチャレンジだとも思いません。

だから、やると決めたことを無事に成し遂げられた場合でも、「わたし、頑張った!」とは思えないのです。チャレンジしたと思っていないのだから、やり切った感がまるでなく、当たり前のことをしただけということで済ませてしまいます。
そうすると何が厄介って、「自分は何も行動していない」とうじうじ思い悩むことになるのです。

わたしの場合、アウトプットが足りないと言われることもあれば、いろいろやっててすごいよねーと言われることもあります。
足りないと言われれば、図星だーと思ってしょぼーんとなり、すごいよねーと言われれば、「え、どこが? 当たり前のことやん」という反応になります。どちらにしても、否定的です。

低いハードルのものばかりを選んでいるから、やり切った感がないわけでもないんです。なぜなら、やる! と決める前までは、このハードルを越えられるかしら、そもそも自分がそこを越えようとするのは分不相応かも、世の中そんなに甘くない、などといったことをぐるぐると考えるのですから。

その高いハードルを何かのはずみで乗り越えられて、無事に成し遂げられた場合、できちゃった時点で、ハードルが高いということが消し去られてしまいます。高そうに見えたけどそれは高くはなかった、たぶん勘違いだったんだということになります。
自分はごくごく普通のことをやっただけ。いつもトーストとコーヒーの朝食だけど、今日はそれに目玉焼きを付けてみた、程度のことで終わってしまうのです。

些細なことでも「頑張った!」と自分を褒めてあげればいいのかもしれないけど、それはあんまりやりたくないんです。怠け者のわたしがそれをやったら、自分を甘やかすばかりで何もできないダメ人間になるような気がして、怖くてできません。
じゃあ、どうすりゃいいっちゅうねん。めんどくさいやっちゃなあ、と自分で思います。

何でこんなことをぐちゃぐちゃと考えておるかといいますと、実は今、「やったことのないことをやれ」というお題が目の前のお皿にのっかっております。何かチャレンジしてこいってことだととらえています。
チャレンジをチャレンジと思えないわたしは、いったい何をやればいいんでしょう。
友達とラーメンでも食べに行くか……。

あ、そうか。べつにやり切った感がなくてもいいのか。
このお題の意味するところは、結果がうまくいったか否かに関係なく、何かにチャレンジしてみたことによって、自分の可能性や視野が広がるということだとします。
やってみた結果、こういうことは自分にはできる(できない)ことがわかったとか、こういうことをするひとの気持ちを考えることができるようになったとか、そういう意味での可能性や視野の広がり。
そうだとすれば、やり切った感にこだわらなくてもいいわけで。

もしかしたら、今まで何をやってもやり切った感がなく当たり前に思ってしまうというのは、可能性が広がったからなのかもしれません。
できるようになったら、それはもうチャレンジではないんだから、それを過去に遡って「わたしチャレンジした!」とかわざわざ言う必要はないんですね。
チャレンジした、やり切ったなど自分を褒めた結果、そこで安心して立ち止まってしまうくらいなら、もっと可能性があるんだろうなと思って前に進んでみることにいたしましょう。

今日のBGM:


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?