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#買うときのこだわり

昔は、とくに洋服なんかはなにも考えずにいいなと思ったものをぱっぱか買っていた。まだ物を持たないことが良しとされることが一般的ではなかった時代のことだ。
断捨離を始めとする片付け系や物を少なくする考え方が世の中に出回っていなかったら、わたしも自分の親のように物にあふれた生活をしていたかもしれない。
親たちにとっては物を最小限にするという考え方を受け入れるにはタイミングが遅すぎたのかもしれない。ひとにもよるけど。

わたしはなにごとにおいてもこだわりというのが希薄なので、今もこだわって買い物しているとは言えない。ぱっぱか買うことはなくなったけど、それはもちろん断捨離的考え方に大きく影響されていることはあるが、家賃の高い東京に住んでいる身ゆえ、狭い住まいをさらに物で狭くしたくないという思いが強いからである。
なにかの間違いでだだっ広い家に住んでいたら、物を買うのに「必要か?」「必要じゃないかも?」「どこに置く(しまう)?」とだらだら逡巡することはなかったかもしれず、たくさんの物を持つ生活をしていた可能性も否定はできない。

最近は50歳をすぎたこともあり、そうそう買い換えるものではないものや容易に壊れそうにないものを買うときはさらに慎重になる。消耗品ではないものは、もしかしたらこれが最後の買い物になるかもしれないから。
「一生モノですよ」とかよく店員が言うのを「んなわけないだろ」と今までは思っていたけど、最近はちょっと大きいものを買うときは一生モノかもしれないと思うようになった。

こだわりがないから買い物でもわりと妥協してしまう。なにかほしい物があってたとえば希望の色が在庫切れになっていたら、入荷するまで待てずにほかの色を買ってしまうような人間だ。
洋服は消耗品だと思っているのでそんな感じでもいいかもしれないけど、長く使うものについてはそういう妥協はしないようになってきた。

ちょっと早いかもしれないけど、人生の終わりに向けてカウトダウンが始まったのだと思う。
スマホはお値段は高いけど消耗品に近いからあんまり深刻に考えないけど、死ぬまでに冷蔵庫はあと何回買うのかとか、テーブルや椅子なんかはもしかしたら一生買わないかもしれないなとか思うと、人生って短いと思う。
あとで買い換えればいいやとか、次にいいのを買えばいいやというのがだんだん通用しなくなってきた。歳とともに買い物が好きじゃなくなってきたのは、やり直しがきかなくなってきたことへの恐怖のせいなのかもしれない。

だから長く使いそうなものは、予算の範囲内という制約はあるけれど、迷ったときは安いほうにするとか、ここのわずかな部分が好きじゃないけどまあいいやという妥協はしないことにしている。というか自然にそうなった。

かと言ってぎちぎちに悩んで買ったものにずっと縛られるのも窮屈だ。そのときは妥協しなかったけど数年たてば好みや状況が変わったりすることもあるから、抱え込まずに上手に手放すなどして心身代謝を程よくすることが生きる上での身軽さへも通じるのかなと思うので、そこはあんまりこだわり続けないようにしたい。

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