見出し画像

あなたのコンビニエンス

先だって15年ぶりにパーマをかけたとき、久しぶりに雑誌を読んだ。いつもはカットだけなので雑誌も読まない。
今は電子デバイスを渡されて、たくさんの雑誌から好きなものを選べるようになっている。
わたしは好奇心も購買意欲も衰退しているお年頃で、ファッション誌なんて読む気もしないので、『天然生活』だったか、それ系のをパラパラ(とは電子書籍だからできないのだが)読んだ。

そのなかに、80いくつというご婦人(料理家だったか?)の記事が載っていた。「物は大事にしましょうね」という方針の内容で、使えるものはいろんなものに使っている様子が紹介されていた。
すてきなデザインの包装紙は、なにかに使うときのためにきれいにたたんでしまっておいたり、「サランラップなんてどうして使うのかしら、さらしっていう便利なものがあるのにね」と言っていたり、わたしはなんだか責められているような気がしながら読んだ。

その雑誌のなかではもちろん美談として書かれていたけれど、一つ間違えたらこのひとだって「おばあちゃん、どうしてこんなもの大事にとっとくの。どうせ使わないでしょっ!」って家族に言われちゃうかもしれない。
あるいは「もっと便利な方法があるのに、おばあちゃん、なんでわざわざめんどくさいことしてるの?」なんてことも言われたりするかもしれない。

でも、傍から見て面倒くさそうだったり時代遅れに見えたりすることだって、本人がめんどくさいなと思っていなければ、それはそれで本人にとって幸せなんじゃないだろうか。
まぁ、一緒に住んでれば、物でスペースを埋められちゃうのは嫌だけど、自分に被害が及ばなければ微笑ましくも思える。

こうやって自然にできるのならいいけれど、罪悪感を払拭するために「ていねいな生活」をするくらいなら、そんなものはとっととやめてしまえばいいと思う。
そもそも「ていねいな生活」ってなんだろう。手間ひまかけることとか、物を大事にすることとか?
それが純粋に楽しくて、自然に体がそうしてしまうのなら、わたしは尊重する。
時代遅れだの非効率だのなんて言うひとのことは、どうぞぶっ飛ばしてやってください。

ちゃんとそういう自覚をもっている行動だったら、それをとやかくは言えない。
時間はかかるけどあえてこの不便が好きっていうことを自覚した結果なのか、それとも時間がかかるなーと不満に思いつつ何も手を打たないだけなのか。

わたしもついつい「しょうがない」とか「こういうもんだ」と思っているまま、何も変えようとしないことがある。
冷蔵庫を置く場所から寝るときの頭の向きに至るまで、自分で考えた結果そうなっているのかどうか怪しいものはたくさんある。
不便じゃないならべつにいい。だけど、日々の小さなことがプチストレスになっているのもわからず、心の奥の方でめんどくせーなと感じていることにももはや気づかないままやってることがいろいろあるかもしれない。

便利さってひとりひとり違うものだと思うから、これが正解っていうのはないはず。
だけど、大変だな、めんどくさいなと思っているのに、何も手を打たないのは怠惰の現れだと思う。

世の中には自分の及ばないことだってたくさんある。今のこの世界の状況だってしょうがないっちゃしょうがない。個人で手を打てるものではない。
だからこそ、自分の手の届く範囲は便利に、いや便利というのではなく自分のプチ幸せのために、ないアタマを使っていきたいと思う。
ひとのやり方を真似してもそれが自分にフィットするとは限らない。なぜなら、便利さってひとによって違うから。冒頭の、雑誌に出てたご婦人の便利さとわたしの便利さが違うように。
だけど他人のやり方の奥にある本質をちょっと頂戴してアレンジすれば、自分のやり方が生み出せると思う。

そういえば、そのご婦人は卵の殻でビンを洗っていたのだけど、わたしもそれを真似して、卵の殻でステンレスの水筒を洗うようにした。
水筒を洗うためだけにあるスポンジがいらなくなったので、たいへんよかったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?