見出し画像

近所のおばちゃんだったらよかったのに

昔いた職場で、ちょっと扱いにくいおばちゃんがいた。
彼女は地方の事業所にいたのだけど、同じ事業部だったので、後輩が彼女と一緒に遠隔で一緒に仕事をしていた。

彼女たちは時々間違いを起こしてはクライアントから文句を言われるのだけど、そのおばちゃんは全部ひとのせいにして責任のがれするのが常だった。

こういうひとと組むときは、うまくいくようなやりかたを考えればいいんだけど、後輩もそこまで余裕と能力のあるやつじゃなかったので、同じようなミスが、びっくりするくらい定期的に起こっていた。
おばちゃんは半分天下りのような感じでうちの会社に入ってきたので、彼女の上司も事業部長もなにも言えなかった。

でも、このおばちゃん、わたしが出張で彼女のいる事業所に行くと、とても親切にしてくれた。
新幹線の中で食べや〜といつもお菓子をくれた。帰るときには、タクシーの中から見えなくなるまでずっと手を振って見送ってくれた。
基本的に優しいひとなのだ。
このおばちゃんが利害関係のないご近所さんとかスポーツジムで知り合ったお友達とかだったら、もうちょっと仲良くできたかもと思う。

その逆もある。
プライベートの時間に学生時代の友人といると、今わたしとごはん食べてるあなたのことは好きだけど、もし同僚として出会っていたら、絶対に仲良くなれないなあと思うことがある。

だれかをまるっと、なにもかもを好きになれることなんてわたしにはない。友達も恋人もきょうだいも親でさえも。
子供については、生んだことがないからわからん。

基本的に損得勘定でものごとを考えるけれど、仕事だけは損得勘定抜きで、身を粉にして働くひととか、派手好きで成金的だけど、だれに対しても分け隔てなく優しいひととか、無口で無愛想で挨拶もろくにできないけど、みんながやりたがらない仕事を黙ってやってくれるひととか。

要するにいいところもあれば悪いところもあるっていう当たり前に言われていることなんだけども、人間のもつそうした多面性のどれを自分は選択するのか。

ある一面を見てそのひとをまるっと否定してしまうこともあれば、好きになったり嫌いになったり、ゆらゆらすることもある。

「人間は、生きていくためには、どうしても自分を肯定しなければならない。自分を愛せなくなれば、生きていくのが辛くなってしまう。しかしですよ、自分を全面的に肯定する、まるごと愛するというのは、なかなか出来ないことです。[……]しかし、誰かといる時の自分は好きだ、と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は、自然と快活になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分は愛せる。だとしたら、その分人を足場に生きていけばいい。」
(平野啓一郎『空白を満たしなさい』2012年、講談社、331頁)

(ここで言う「分人」というのは、同書によれば、対人関係ごとのいろいろな自分のことだそうだ。「役割距離」に似ているのかな)

これを読んだとき、わたしは自分がどうこうというよりも、他人をどう肯定するかということに当てはめて考えた。

他人の嫌なところばかり見ていたら―嫌なところほど目立つのだけど―、相手をまるっと否定してしまって、その結果人間関係に疲弊する。
かといって、こういうところはいいんだけど、こういうところはちょっとねえ……という考え方はよろしくない、そのひとをまるっと肯定しなければ、まるっと好きにならなければいけないと思っていた。
同じ人物に対して好きも嫌いもあるというのは、裏表があるように思い込んでいたのだ。

普段、自分のことが好きだとか嫌いだとか考えないけれど、でも、自己肯定感が低かったり、ときに自己嫌悪に陥ったりするのは、自分のことが嫌いか、あるいはあまり好きではないということだと思う。
そうやって自分のことさえまるっと好きになれないのならば、神扱いするような他人でない限り、おおかたの他人に対してはなおさらだ。
相手のいいところも、悪いところ(とこっちが勝手に思っている)も、まるごと受け入れようとするから疲れるのだ。

仕事しているときのこのひとは好きだ、生き生きしているときのこのひとは好きだというふうに、自分にとっての相手のいいところは前のめりに受け入れていって、そうじゃないところは「あーあ」って、生暖かい目で見てればいいのかも。

とはいえ、家ではどんなにいいお父さんでも、膨大な数の人間を死に追いやるようなひとは、いいところもあれば悪いところもあるなんて言えないんだけどね。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?