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時間がない

先だって夕ごはんを食べてからの散歩をした。子どもの頃の夕涼みを思い出した。懐かしい。
ごはん食べて、お皿洗ったら、ちょっと八幡さまのお祭り行ってみようかとか。
夏休みに滞在していた(というかほぼ預けられていた)房総の祖父母宅でも、やはり夕涼みがてら、道中懐中電灯を照らしながらお祭りに行った。田んぼで虫が盛大に鳴いていた。

近年の東京の真夏は、今はまだそうでもないけど、本気出したら日が暮れてもセミが鳴いているくらい暑いから夕涼みどころじゃない。それと、それ以前にそんな時間的余裕がない。
……と思っている。時間がないのは、やらなくてもいいこととか、やりたくもないことをやっているからで、その結果、時間がないと思いこんでいるのかもしれない。

少し乱暴だけどとりあえず、やりたいこと=自分のため、やりたくないこと=他人のためとしておこう。

たとえば掃除なんかは決してやりたくはない。けれど、やらないと自分が気分よくすごせない。だから、掃除は(間接的に)やりたいことなんだと自分に言い聞かせる。
掃除はやりたくないことなんじゃなくて、その行為が楽しくないから(やり始めればだいたいフロー状態になるけど)やりたくないことに分類されてしまう。わたしの場合は料理も同じ。

やりたくないこと=他人のためとしてしまうと、自分のためにしか動かない人間みたいに思われるかもしれないけど、まあ実際そうなんだけど。

他人のためという理由が100%の行動ってあるんだろうか。仕事で、アホなクライアントの不条理な要望を受けるのだって、自分がそれでお金を得たいからだったり、変に逆らってクライアントのみならず社内での自分の立ち位置を悪くしたくなかったりなどといった理由があるだろう。
決してクライアント様のためではなく自分のためだ。だれからも強制されていないという意味で、自分がやりたいことなのかもしれない。

猫の世話をするのも、猫のためというのももちろんあるけれど、猫に元気でいてほしい、なぜならわたしが猫と一緒にいたいからという動機からくるものがほとんどを占める。

夕涼みの帰りに、最近気に入っているアイスを買いにスーパーに入った。レジの前で違う方向から来たひととかち合ってしまい、お先にどうぞと譲ったら、相手は当然のような顔をして先に並んだ。
せめて会釈ぐらいしろよと思ったけ。だけど、そうじゃない。わたしはそのひとのために、完全なる利他の精神で順番を譲ったのではなく、お礼を言われたいとか寛容な自分であることを示したい(自分に対しても)ための行動だったのだ。だから感謝されたいのにそれが実現されなくてカチンときた。自分が勝手に行った親切にお礼を求めちゃうのって変だけど、それは親切じゃなくて、感謝されたかったからお礼を求めちゃったのだと思う。

無私の行動と言われるものだって、ひとのためになにかをすることがやりたいこと、自分がやりたいからそうするだけだと思う。
完全に他人のためのみの行動は、強制されて行うもの以外にないのかも。たとえば強制労働とか。でも、それも突き詰めれば、いや突き詰めるのはやめとこ。

そうは言っても「それはあなたのやりたいことなんでしょう、文句言っちゃだめよ」などと、なんでもかんでも自己責任に帰すつもりもない。
お金に余裕のあるひとならば、衣食住を最低限以上に足りたものにするために不愉快なことをする時間がなく、結局はお金と同様に時間にも余裕が出るんだろう。
そういうふうにできないことを、以前は努力が足りないとか、運が悪いとか、育った環境や受けた教育がよくなかったなどと、自分のせい&他人のせいにしていたこともあった。
それと同時に、ぼやいてはいけない、ひとや環境のせいにしてはいけないとも思っていた。両腕をちがうひとに引っ張り合いされているような感じ。

だけど最近は、ぼやいたりひとのせいにしたりしても(ある程度は)いいことにした。あくまでも独り言的に、わたしに向かって。
わたしはわたしを一番気の合う友だちだと思っているので、どっちがどっちかわかんないけど、わたしに向かってもうやだとか、あいつムカつくとか言う。実際に声に出して。そうすると、そう思っちゃいけないと思いながらでも胸のなかに自然と湧き上がってしまうそういう感情を無視しているよりも、その不愉快はあっさり終わる。

えっと、時間がないって話でしたっけね。
無理やりまとめると、時間がないと思ってるけど、ほとんどは自分のために時間を使ってるってこと。
掃除ももっと楽しくできる工夫をすれば、自分の時間だと思えるかもね。

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