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できない理由

できないのがわかっているので、年始の誓いを立てることはもう長いことしていない。このnoteにしたって、今年はもう少し書きたいわ〜なんて元日に書いておいて、1月5日にしてこれでまだ2本目だ。
それにわたしの場合、今年はこうするぞ! って新年の誓いを立てるときはそこにだいたい前年の否定が漂っている。やなことから目を背けがちなわたしには、そのことがいやでもある。
月初にわりに低い目標を立てていたこともあったのだけど、それもおととしのいつだかにやめてしまった。すべてができた試しがないんだもの。
そんなこともあり、新年だからといって抱負や目標を立てることもしなくなってしまった。

あくまでもわたしの場合だけど、習慣化に関することで言えば、それは言語化して高らかに宣言するよりも、やらないと気持ち悪いっていうことを感覚として覚えておくっていう感じにもっていくほうが続く。

たとえば、わたしは顔ヨガを毎日やり始めて3年近くなる。切迫感というか、ほんとうにやばいと思っているのが続けている理由だと思う。
顔ヨガ自体は習慣化する前に習ったことがあったのだけど、やったりやらなかったりしていた。だけど、あるとき鏡をまじまじと見たら自分の顔が思っていたよりたるんでいたことに衝撃を覚え、これ以上顔の肉を重力に従わせるわけにはいかないと思った。
毎日やるのが面倒くさくなってもあのときのショックを思い出せば、自然とやらざるを得ないようになる。

はっきり言って即効性はない。即効性なんか期待していたら、顔ヨガだろうがダイエットだろうが続かない。
だけどうまくしたもので、ダイエットもやり始めにはいったん少し痩せて、その後停滞期に入るという話も聞くし、顔ヨガも直後には口角が少し上がるなどといったわかりやすい効果がわりに早い段階に出てくる。
しかし、そこで満足してやめてしまったらもとの黙阿弥なので、その早い段階で出てきた効果をしっかりと覚えておくことが動機づけになっていることに気づいた。
いい効果があったという記憶があれば、それより前、たとえば今以上に顔がたるんでいたころには戻りたくないといった動機がはたらく。

なにかをやり続けるということは、強い意志やテクニックだけでなく、それ以外のなにか、先に述べた「戻りたくない!」という感情であったり、なんらかの記憶であったり、あるいは身体感覚であったり、そういうことが必要だったんだ。もっと早くにわかっていたら、学校の勉強ももう少しうまくできたかもしれない。
個人差はあると思うけど、丸暗記で覚えられる量には限りがあると思う。なにかを覚えないといけない場合にも、関連するイメージや身体感覚って関係してくると思う。だから、単語帳では英単語なんかが覚えられないのだ。
去年、芝居をやるにあたって台詞を覚えなければならなかった。久しぶりに暗記という作業をしたときにわかったのは、そこに書いてある文字だけを頼りに覚えるのは困難で、台本を読んでいたシチュエーション、たとえばあるシーンの台詞を読んでいたのがとても混んだ電車の中で、暑くて不快だったとか、そういう印象と紐付いて覚えているんだなということ。あるいはその台詞がページのどのあたり、真ん中へんなのか、端っこだったのかといった書いてあった場所という視覚的なイメージも、台詞を覚えることには役に立った。

そうしたうっすらとしたイメージや、身体感覚、感情などは、自分の意図したものではないし、ひとから言われて理解できるものでもない。頭ではわかっても、自分のなかにある自分でコントロールできない部分にはたらきかけるのは、言語化された知識だけでは難しいんじゃないかと思う。
空腹はなにかを食べることでしか解消できないし、うれしくってウキウキしていることを無理やり苦しみに変換することができないのと同じだ。

遠回りかもしれないけど、そういう身体感覚なり感情なりを自分で発見しなければ、やり方を何とかすることに終始してしまう。
わたしが目標を立ててもみごとに達成できなかったのは、テクニック的に、あるいは根性論的に、あるいは単純化された方法論的に則ってやろうとしていたからにほかならないわけで、感情や身体感覚に裏付けされた動機がなかったんだと思う。

と言いつつ、試験勉強しなきゃと思っているのに、手がつけられない自分っていったいなに?

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