思考停止と無知と想像力

5月でしたか、ある大学が学内の施設を改修する際に、その施設に設置されていた文化的な価値があるとされる作品を捨てちゃったなんてことがありました。
そのできごとの当事者に取材した記事を、先日どこかのニュースサイトで読みました。

取材した記者は「思考停止」という切り口で書きたかったのか、あるいは記者本人の考えの確証を得たかったのか、とにかく「思考停止」ということばを取材先から引き出して満足して終わったように思える記事でした。

「思考停止」って便利なことばで、言われた側は嫌な気分になりやすいので、愚かなわたしは、このことばを切り札的に使うことがあります。
ちょっとしたゴタゴタで勝ちたいときに、意味もわからず「それって思考停止だよね」なんて言ってしまいます。それ言ってる自分が思考停止やんと思うんですけど。

で、この大学で起きたできごとの場合、思考停止とはちょっと違うんじゃないのかと思いました。
当事者はその作品が文化的価値のあるものだとは知らなかったそうです。知らないことはそもそも考えられないのに、思考を停止することなんてできるんでしょうか。

よく「わからなかったら質問してね」なんて言いますけど、質問は知っているから質問ができるのであって、知らなければ質問のしようがないと思います。

先だって、あるイベントに運営スタッフとして参加していたときのことです。
飲食で出たゴミは、出店しているお店が受け取るように決められていたのですが、学生ボランティアがお客さんからゴミを受け取ってしまったらしいのです。学生ボランティアからゴミを託されたあるスタッフが「わからなかったら訊いてねって言ったのに〜」とぶつくさ言っていました。
でも、ボランティアの学生は(お客さんも)その決めごとを知らず、ゴミは運営側で処分すると思っていたのでしょう。そんな彼らが質問するとしたら、「お客さんから受け取ったゴミはどこに捨てればいいですか」であって、「ゴミを受け取っていいかどうか」ではありません。
知らないことは質問できないのです。

ですから、冒頭の大学においては、価値があることを知らないで捨てちゃったので、「思考停止」ではなく単に「無知」だったから起きたできごとなんだと思います。その作品は、彼らにとっては机や椅子みたいなものと同様に捨ててもいいものだったんです。
持ち物リストみたいなのはなかったのかという問題はありますが、なかったかその存在を知られていなかったんでしょうから、それ以上追求のしようがありません。
知らないことは調べられないのです。

思考停止ってあれこれ考えようとして、やっぱめんどくさいからやーめたってものだと思います。ヘンだなとは思うけど、みんなが当たり前のようにやってるからそれにならおうというようなものです。
故意に考えない。知っていることが前提です。

思考停止と無知のどちらにも「想像力」があれば、もう少しマシな結果が出るのかもしれません。
当たり前だと言われているからそうやっているけど、これをやる意味はなんだろうかという想像力とか(→ほかの方法を試す or そもそも必要ないからやめる)。
このしかたでは、ゴミの捨て方がわからないひとが出てくるかもしれないという想像力とか(→わかりやすい方法を考える)。
文化的価値があるようには見えないけれど、もしかしたらあるかもしれないという想像力とか(→調べる)。

さて、考えすぎてもじもじして動けない場合は、思考停止はやはり便利な方法でしょう。
思考を停止し結果を想像しないで滑走路を走ってびゅーんと飛んだらふわーっと浮くんでしょうか。やってみたいでございます。

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