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感情を取りに行く

最近、吉本ばなな先生をよくお見かけするようになった。ネット上でだけど。
noteを始めたらばなな先生もnoteで書いていることを知って、購読させてもらっているし、アメブロも始められて、わたしゃうれしい。

ばなな先生の『キッチン』が出たのは、わたしが高校生の頃だったと思う。それ以来、新刊が出れば必ず読んでいた。
けれど、社会人になってからは、ああいったやさしい世界にいられなくなって、ばなな作品から離れてしまった。
社会に少し出遅れたわたしは、はやく「普通」の位置にたどり着かなければならないと焦っていたので、あのやさしい世界に浸ってはいけないと思っていた。もっと強く、現実的に、綿あめよりもべっこうあめという感じだった。

何がきっかけかは忘れてしまったけれど、少し前に、そのブランクの間に読み損なったばなな先生の小説やエッセイをむさぼり読んだ。
『キッチン』や『TUGUMI』など初期の作品も、もう一度読んだ。それらの昔読んだことのある作品を読んだときにふと思った。感情は自分から取りに行くものなんだと。
感情は自分のなかから自然に湧き上がるものだと思っていたのだけど、何もないところからはやはり何も湧き上がらないのだなと、そのとき思ったのだ。

本を読んで、あるいは映画を観て、内容がぜんぜんわかっていないことがわたしにはよくある。
語法としてのことばの意味はわかっているから、なんとなくわかった気になっている。でもあらすじを説明せよと言われたとしたら、たぶん登場人物の名前(洋画の場合はそれすらできるか怪しい)くらいしか言えない。

以前インフルエンザになったとき、寝るしかないから村上春樹先生の小説を読んでいると友人に言ったら、具合の悪いときによくあんな難しい本を読めるね、と言われた。
熱でひーひー言っているときにフッサールを読めと言われたら、そりゃ頭が沸騰してしまいそうだけど、春樹本ならぜんぜん難しくないのにとそのときは思った。だけど、今なら友人の言ったことがわかる。
文章が平明だから難しく感じないしわかった気になるけれど、それはたいへんに大きな勘違いで、わたしは字面を追っていただけで、まったくもって内容をわかっていなかった。
難しいと感じていた友人は、難しいとわかる程度には理解していたし、難しいと感じていなかったわたしはぜんぜん理解していなかったということだ。

「頭のいいひと」がいる。勉強ができるだけでなく、飲み込みがはやいだけでもなく、要領がいいだけでもないひと(これらすべてに当てはまらない「頭のいいひと」もいると思う)。
ここで言う「頭のいいひと」がどういうひとなのかうまく説明できないのだけど、たとえば少ない情報でも、そこにある法則性とか本質を比較的短い時間でわかってしまうようなひと。キャッチする力と理解する力が高いひと。うーむ、伝えられる語彙力と表現力が足りない……。
まあともかく、そういうひとは日常生活においてもコンテンツにおいても、間接的なことばや比喩などから、法則的なことであれ情緒的なことであれ確実に受け取ることができているとわたしは見ている。

わたしがどんな小説を読んでも、どんなドラマやドキュメンタリーを観ても感情が動かないのは、そこに表現されていることの意味がほんとうにはわかっていないからだ。
わからないのはコンテンツから自分にとって大事な何かを受け取れないからで、受け取れないのは、わたしがそこから動かないからだ。
ぼんやり眺めていても、そこから何かを受け取ることはできない。目の前のごちそうを眺めているだけでは食べられないのだから箸などを使って口の中に入れるのだし、閉じこもっていても素敵なひとが突然訪ねてくるわけではないから外に出て婚活するのと同じように、コンテンツの中へと自分から入って取りに行かなければ、受け取れない。
取りに行くから受け取れる。「頭のいいひと」はたぶんそれを当たり前にやっている。

受け手にこう受け取ってほしいとコンテンツの作り手が意図している場合もあれば、していない場合もある。
何を受け取るかの正解がある場合もあれば、正解がない場合もある。
取りに行ったからといって、自分のなかでトンチンカンに変換してしまって、適切なものを持って帰れないかもしれない。
でも、それにめげずに取りに行く。

『キッチン』など古い作品を再読したとき、年齢を重ねたのだから読んだ後の感情も当時と違うものになるかと思っていたのに、ほとんど変わらなかった。
年齢によって何を思ったり感じたりするのかは変わってくるとはよく言われることだけど、わたしが本や映画とぼんやりとしか向き合っていない限り、20歳だろうが60歳だろうがたいして変わらない。
取りに行っていないのに以前と変わったと感じるのなら、それは当時にはまだなかった自分の経験に、今は当てはめて考えるようになったからにすぎない。

ある程度の年齢になってから感受性を高めることはできるのかという議論を、だれかとどこかでしたことがある。そのときはどうなのか答えは出せなかったけど、取りに行って何かを受け取って帰ってくることをしていれば高めることができるかもしれないと今は思う。

なんだか抽象的な話になっちゃったけど、じゃあ取りに行くって具体的になんなのよってことだけど、語彙力と表現力を鍛えてから書きます!

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