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減っていくもの

先だって久しぶりにひとと会った。一日で昼と夜に一人ずつとはわたしにしては珍しい。
大学の同期の二人とはたまにLINEでやり取りはしつつ、一人とは3年ぶりだった。もう一人とは東日本大震災が起こる数時間前に、たまたま駅でばったり会ったのが最後だったと思う。

こんなこと言うとそれこそ愚痴っぽくなるが、ずっと昔からなぜかわたしはいろいろなひと(母親からすらも)から愚痴をこぼされることが多かった。
その理由を推測するに、わたしがネガティブオーラを出していて、だからこいつには愚痴のようなネガティブな話題でいいというふうに誘導させてしまってるんだろう。

かつてのわたしはそんな相手になんとかしてあげたいと勝手に思って、愚かにもアドバイス的なことを言ったりしていた。
「これこれこういうことが嫌だから会社辞めたい」→「じゃあやめれば」→「だって私が辞めたら困る」等うんぬんかんぬん。んじゃあどうしろっちゅうねんと、こっちはイライラするわけですよ。
現状を変えたくないのなら、解決しない(しようとしない)愚痴を言ったところで意味がない。

などということを経て、アドバイスなんぞは大きなお世話さまで、相手はただ聞いてもらってすっきりしたいだけなのだということに気づくまでけっこう時間がかかった。便秘が不快なように、溜まったものは出してすっきりしたい、ただそれだけだったのだ。
相手も愚痴を言っているということに無自覚なひとが多く(愚痴なんか言ったことないと断言したひともいたのは、愚痴が当たり前過ぎて自覚できないんだろう)真面目に聞いていてなんだかあほらしくなってしまった。
そして「わたしはゴミ箱じゃないんですけど」みたいなことを言ったら離れていったひともいるし、状況が好転してわたしがお役御免になって離れていったひともいる。なんだかねえ。

そういうことに疲れて人間関係を薄くしたら、かなり楽になった。以前は一人でいる時間が長いとだんだん鬱っぽくなることがあったけど、徐々に耐性がついてそういうこともなくなった。コロナ禍で自粛生活ということも、自分だけが一人じゃないと思えた。

だけど、久しぶりにひとと会って話してみたら、普通に楽しく会話できて驚いた。
親御さんの介護をしている友人の話も、大変は大変なんだろうけど愚痴っぽくはなく、現状報告という感じだった。それは介護を嫌々やっているからではなく、彼女がそうしたいからそうしているからだと思う。
それをぐちぐち言われていたとしたら、最初は同情しつつも、また「じゃあ施設に入れればいいじゃん」などと余計なことを言いかねない。
べつの友人も、会社の愚痴や家族の愚痴をぜんぜん言わなくなっていた。不満はないわけじゃないだろうけど、むしろそれを笑い飛ばす感じ。大人の余裕?

50代に突入したわたしたちは若いときより選択肢が減っているはずなのに、愚痴が減るのって不思議だなと思った。それはあきらめとか余裕というのもあるのかもしれないけど、自分で選んでいるということが大きいと思う。

わたしも若いときはいろいろなことに関して不満が今より多かった。人間っていいことよりも悪いことにフォーカスしてしまいがちなので、それも一つの原因だと思う。
それ以上に大きいのは、自分以外のひとや環境に対して文句を言っていれば、自分は悪くないと思えるということ。自分は悪くない、周りが悪いという図式にしていたと思う。その一方で変に自信がなく、自分が悪いんじゃないかとおどおどしたりすることもあったりと面倒くさいやつだった。

最終的に自分の行動を決めるのは自分でしかない。なんか会社ムカつくなと思うことはよくあるけど、「貧乏生活はしたくない」が最優先なので自分は会社勤めを選んでいるし、やりがいや出世なんかも求めてないのでムカつくほど深入りしなければいいのだ。
とはいえ日曜の夜はあんまり楽しくないんだけどね。でもサザエさん症候群になっている自分を、生暖かく眺める別の自分が現れるようになってきてよかったと思っている。

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