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待つということについて

シンガポールにいた頃、なにかの話からローカルの同僚が「日本人って待てないよね」と、べつにいいとか悪いとかいう雰囲気なく言った。
あちらはイギリス仕込みのマナーが浸透していて、それにプラスして東洋の礼儀も存在し、(表面上は)マナーのいい国だ。
日本も礼儀正しく秩序ある国/国民だなどと言われるけど、そういう部分もあるしそうでない部分もあるといった点でわたしは半分くらいは同意していない。

日本人が「待てない」と言われるのはわかる。「譲られる」ということがあまりにも少ないから、外国から日本に来たひとは、なにをそんなに我先に……と思うんだろう。
かくいうわたしも小さい人間なので、あまりにみんなが我先になのであまり譲るということを日本ではしていない。まあとろくさいので、気がつくと譲ったことになっていることは多いんだけど。ともあれ余裕のある人間になりたい。

さて、とろくさいと言いつつ、一方で気は短いほうで、わたしは待つということができない。
先だっても家電の電源コードを壁に這わせようと、裏に粘着テープが貼られたフックを買ったのだけど、待つということができずに無駄なことをした。壁にフックを貼ったら24時間は何も付けてはいけないと書いてあるのに、はやいところこの床に散らばったコードをなんとかしたくて早々にフックにかけてしまったら、翌日の朝フックは壁からはがれていた。だから言ったでしょ。

前置きが長いとか、関係ない話が間にはさまるといった、要するに長い話も苦手なんだけど、生身の人間相手にするときはよほどのことがなければ話を遮ることはしない。
時間がないときとかこちらがハイテンションのときなどは、質問するふりしてまとめてしまうことはあるけど、一応話に関係あるのかなと思うし、自分もそうされると嫌だからだ。

リアルの人間の話を聞くだけでいっぱいいっぱいなので、YouTubeは運動系のもの以外は基本的に観ないし、観るとしても1.5倍〜2倍速くらいにする(それでも普通に喋っているのと変わらないひとがいてびっくりする)。
そのくせ映画は好きで、2時間じっと座っていられるし、小説も短編より長編が好みで、気が短いんだか長いんだかどっちだよって感じだ。
何歳のときか忘れたけど、生まれて初めて小説というものを読んだとき、「僕は台所に行ってきゅうりのサンドイッチをつくった」とかって必要? と思った。ほとんどいらないページやんって思いながら読んだ記憶がある。今となってはそれも含めて長い小説を楽しませてもらっている、ありがとう小説家の皆さん。

だからというわけではないけど、自分のnoteも無駄に長い。知り合いに「ブログなのに長くない?」と言われたことがあるけど無視。ここでくらいしゃべらせてくれ。

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待てなくて損することもあるけど、いつまで待つかという区切りの判断はひとによって異なると思う。区切りがはやすぎてもう少し待ってたらよかったってこともあれば、その逆もあるだろうし。

自分がどうしても耐えられないことだったら、とっとと見切りをつけたほうがいいと思う。ブラック企業とか、問題のあるパートナーとか。
わたしが離婚したのは結婚してから2年半くらいで、相手のやってた事業が軌道に乗らず、こっちは普通に会社員なのに困窮していくのに耐えきれずに見切りをつけた。
ずいぶん早いのねとか、もう少し一緒に頑張ってあげないのとか言われたけど、相手の性格とかやり方とか諸々含めてあんまり変わらないだろうなと思って下した自分の判断のタイミングは正しかったと思う。

待てないことで人間関係にひびが入ったことは何回かある。解決を急ぎすぎず、自然に雪が解けるのを待つのもひとつの解決策だということがわからず、待てない。白か黒かをすぐにはっきりさせたがってしまう。
雪解けを待ったとしても、待つ間にすっかり面倒くさくなって、お互いの気持は遠のいてそれっきりなんてこともよくある。
フックを貼ったらすぐにコードを通したい、解決できるなら先延ばしにしないでその場でしたいと思う癖はまだ直らない。

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