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愚痴は社会の付属品

他人にも自分にもちょっと厳しすぎたかもしれない、今までの人生で。

今の日本社会では、ほとんどのことは自分で選択できる。日本と言ったってひとにはいろんな事情があるのだから、選択の範囲には幅があると思われるかもしれないけど、みんなが同じように情報と頭を駆使すれば、同じように選択できると思う。

だから、愚痴を言うひとが苦手だった。わたし自身がそのはけ口にされやすいということもあるけれど、あなたが自分で選んだことなのに、それに付随することに文句を言うのはちがうでしょうと思っていたからだ。言ってしまえば「自己責任」でしょということだ。

と言いながらも、仕事という労働には、とくにサラリーマンは愚痴を言いたくなることもあるだろう、自分もそうだしとちょっと例外的に扱っていた。
それはわたし自身が情報と頭を使えていなかったから、職業の選択が必ずしも完全に自分の思うとおりではなかったからだ。
逆に、このひとは完全に自分が選んだ職業に就いていると思えるひとが、仕事いやだとかいう愚痴を言っているのが理解できなかった。

どんなことにも楽しいことにも、もれなくそれ以外の付属品があるなんて否定的なことは言いたくないけれど、でもやっぱりそれは多くのことに存在するのかもしれない。
仕事じゃなくても、趣味であっても、完全に自発的に行っている活動であっても、そこに楽しくないことが発生することは多い。もちろんそうじゃないことだってあるけど。

書きたいことを書きたいタイミングで自分のペースで書くことの許されている、あの村上春樹先生くらいになれば、楽しくないことは存在しないのかもしれない。
いや、先生にだって出版社のマーケティングに振り回されたり、理不尽な赤入れをされたりするのかもしれない(しないのかもしれないけど)。

半世紀近く生きてきて、ようやくひとの愚痴を、聞かされるのは相変わらずいやだけど、そういうこともあるよねと許容できるようになってきつつある。
わたし自身が、100%自分で選び、だれからも強制されないことことであるにもかかわらず、やはりそこに発生するそのものごとの中心以外のことで悩まされるようになったからだ。

あるものごとの中心ではないことは、その中心となるものごとの目的には合致しない。
だけど仕事の愚痴のほとんどが、仕事の本質ではないところにあるのと同じように、どうしてもその目的から外れたやっかいなことは起こる。よそ見をしているひとが少なからずいるからだと思う。
よほどのカリスマ的な求心力がない限り、あるいは軍隊的な強制力(というか洗脳)がない限り、よそ見は防げないのかもしれない。

そこであなたのリーダーシップを発揮するんでしょうと言う向きもいるのかもしれないが、リーダーシップのリの字もないわたしには無理だし、そんな疲れることをする時間があるくらいなら、家で猫とごろごろしていたいと思う。
リーダーシップでもほかの手段でも、問題を次々に解決できるひとってタフだと思う。ほんとうに感心する。

で、問題解決よりもごろごろすることを優先したいわたしはその代わりに、自分の選択であるか否かにかかわらず、つらいことをつらいと思ってしまうという事実を、思わず愚痴を言いたくなるという気持ちが存在することを、自分にも他人にも認めようと思う。
あ、愚痴を聞かされるのはやっぱりいやですけどね。

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