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抱負かよ

毎年毎年一年が着々とすぎていく。一年というのは地球の動きに合わせて人間が設定したもので、言うまでもなく合理的だと思う。でもこの設定がなかったら人間の生活はどうなったんだろうと思う。
日は昇って没むから一日という感覚からは逃げられない気がするけど、一年という概念はなくてもけっこういけるかもしれない。なんだか暑いね寒いね、大きくなったね老けたね等々となんとなくわけがわからないまま時間がすぎていくんだろうか。
まあでも人間は賢いから、なんかよくわかんないから区切りをつけようとか言って程なく年という単位をつくってしまうんだろうな。

わたしは太陽暦には従うものの、へそ曲がりなところがあって、いつのころからかあんまり儀式や形式的なことを好まなくなった(でもなぜかひとの結婚式大好き芸人)。
たとえばうちの会社では賞与明細がわざわざ上司から紙で手渡しされる(Web明細があるのに)。むしろフィードバックのほうがおろそかになっていて、そういう非効率でしかない儀式に苛立ちを覚えてしまう。

などと毒を吐いたが、クリスマスから年始にかけてはやはり多少は儀式への反抗的態度が和らぐ。
クリスマスだからいつもと違うもの食べようかなとか、自分へのクリスマスプレゼント! とか、われながらご都合主義だなと思う。
来年に向けて手帳も買わないといけないし、ゴールデンウイークと年末に分散してやると決めている大掃除もしないといけない。仕事は休みだし、必然的に世間さまと同様に年末年始モードに入るのだ。

でも年始にたてた抱負は達成できないことが多いのでやめてしまった。こうしようと思ったら、時期にかかわらずそのときに決心すればいいだけだし。
それにわたしはあんまり大きな目標を立ててしまうとムキになって、その結果空回りしてうまくいかないこと確実なので、日々の小さなところからちょびちょびと抱負的なものを実行するようにしている。ちゃんと忘れないように手帳に書いておく。

儀式や形式ばったことが嫌いとか言っておきながら、けっこう常識に固まっているので、わたしには新しい発想がなかなかない。
自分の身の回りを見てもそれが現れている。住まいにしても着るものにしても、なんだか無難なんである。べつに突飛なことがよいというわけではないけど、なにかに凝り固まっているような気がしてならない。

てことで、今の今思いついた「抱負」は、必要以上に常識に従ってないかを意識することかな。常識より便利さとか好き嫌いを優先する。
あとは引き続き、興味をもったらとりあえずやってみるとか、新しいことに躊躇して古いやり方にしがみつかないというのをやっていくのはたぶん死ぬまで。

ちょっとの思い切りを出してみるとか、多少の面倒くささを乗り越えるといったことはこれらの「抱負」に共通することなので、ほんとうに些細なことからでも意識してやっておこうと思う。
ってむっちゃ年末的な投稿になってますね。
皆さまよいお年を。

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