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「不味い!」と言う勇気

予約するのに一年待ちという人気っぷり、かつ、お値段的にも高級なお寿司屋さんに運良く行けたとする。
そこで食べたものが今ひとつ美味しいと思えなかった場合、「今ひとつかな」「あの味好きじゃない」と言える勇気は、わたしにはたぶんない。
高いお金を払ったのに不味いだなんて思ったら損した気分になるというのもあるけれど、大勢の人が「美味」と言っているものに対して「不味っ!」と言える強さがないからだ。大勢の価値観に抗う勇気と、そのために見下されることを受け入れる覚悟が足りないのだ。

でも、味覚というものは個人的な好みによるところが大きいはずだ。
もちろんものすごく鮮度の落ちたものなど、だれが食べてもむむむ? と思ってしまう食べ物もあるけれど、日本の東西で味付けが異なるのを見てみれば、美味しさを決める基準は一つじゃない。
大阪の人が東京の食いもんは不味いなどと東京人の目の前で平気で言うけれど、東京っ子は醤油くさいうどんやごった煮的すき焼きで育っていて、それを美味しいと思っている(確かに、大阪の食べ物の美味しさにはびっくりしたけど)。
所変われば味変わる、人が変われば味覚も変わる。

あるふたりの人物の評価がひっくり返ってしまったのを最近目の当たりにした。
最初は評判のよかった人が、最近「口ばっかり」と言われるようになり、最初は嫌われ者だった人が、「あの人の言うことは筋が通っている」と一目置かれるようになった。

わたし自身も同じような経験がある。
歳とった今となっては、自分武装技術が向上したおかげで、必要以上にほいほいされてむず痒いときもあるのだけど、若い頃は、最初になめられたりバカにされたりすることばかりだった。頭悪そうに見えるみたいだ。
で、それにひるまずに、というかひるむんだけど、それでもなんとかやるべきことをやり続けていると、いつの間にか相手の態度がいい方に変わっていたりする、なんてことが多かった。

所変われば評価も変わるし、時が変わってもやっぱり変わるし、人が変わってもやっぱり変わる。評価や評判とか一方的に持たれる感情なんてそんなもんだ。だからそんなことをいちいち気にする必要はない。
このことは、自分がどうふるまうかということについてだけじゃなくて、他人のふるまいに対して自分がどんな態度でいるか(これも評価なのだけど)ということについても言える。

先の人物たちについて、ひとりがきれいなことばを並べるような口だけのやつだということは最初っからうすうす感じていたし、もうひとりが多少頑固ではあるものの、言っていることにはちゃんと意味が込められているし、行動も伴っていると思っていた。
でも、わたしはそれを口に出して言えず、多勢に迎合してしまっていた。Why?
これまでどの世界でも一匹狼的に生きてきたことが多かったけど、このコミュニティではなぜかそのようにできず、周りとほどほどに仲良くやらせてもらってきた。
そうなると嫌われたくないという気持ちが生まれ、言いたいことが言えなくなるんだと思った。そんな経験は中学生のとき以来なので、忘れていた。
今まで意見をハッキリと言ってこられたのは、守るものがなかったからなんだと思った。
なんでみんな言いたいことを言わないんだろうと不思議だったけど、人間関係という捨てたくないものがあるから言えないんだということを思い出した。

しかし、本来それとこれとは分けて考えなければならないものだ。
中学生じゃあるまいし、みんなと意見が違う人をそれだけの理由で嫌うこともない。
いや、もしかしたら実際にはみんなもっと寛容なのかもしれない。違う意見もそれはそれとして認めてくれるのかもしれない。
でも、自分の弱さが人が寛容であることを信じられず、迎合という嘘の行動をとらせてしまう。

大勢の意見と違うことを言って、嫌われたり見下されたりするかもしれない。多数派に引っ付いていても、信用ならんやつと思われるかもしれない。どちらにしても、それがいつまたころっと変わるかわからない

結果はどうであれ、いつ変わるかわからないような当てにならないものに重きを置くのではなくて、自分なりの価値観なり倫理観なり、ま、そんな大げさなものじゃなくてもいいんだけど、後ろ暗くない程度には生きていきたいと思う。
正しいも正しくないも、美味しいも美味しくないも、今のところ正解は発見されていないんだから。自分が正解なのです(`・ω・´)キリッ

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