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ぶきっちょな三段論法

人のためになにかをすることは、人間の本能であると言われることもあれば、「人」の「為」と書いて「偽り」などと言われることもある。

人のためになにかをすれば、「結果がよければ」という条件付きで、それをした側が気分がいいことは確かだ。
なにかをしてあげるべき、あるいはしたほうがいい状況だったのにしなかった/できなかったときは、罪悪感を覚える。罪悪感から自分を正当化することもある。

先だって、近所のマンションの入口で座っているおじさんがいた。2、3段ある階段に腰掛けて休んでいるのかと思ったけど、よく見るとちょっと様子が変だった。

数日ぶりに猛暑がぶり返した日でもあったので、熱中症じゃないかと思い、おじさんに近づいて声をかけた。
おじさんは、腰が痛くなってここで休んでいる、腰が悪くいつものことだから大丈夫と言う。

あまり大丈夫そうには見えなかったけど、本人の体は本人にしかわからないし、医療従事者でもないわたしがおせっかいしても悪いかなと思い、お気をつけてと言ってその場を去った。

そこから1分ほどの自宅に帰ったものの、やっぱりちょっと気になった。
「めしー、めしー」と騒ぐ猫にカリカリをあげてから、もう一回外に出た。自販機で水を買ってさっきのマンションに行くと、おじさんはまだそこにいた。

「熱中症になっちゃうから、とりあえずお水どうぞ」と言って水をあげたら、ありがとうと素直にもらってくれた。
西日ががんがん当たるところで、のどが渇いていたんだろう。シャツの背中に汗ジミができている。

おじさんはここのマンションに住んでいるとのことなので、部屋の前まで付き添ってあげたいとは思った。
だけど、長身のスラッとしたおじさんを、チビ痩せのへなちょこが「わたしの肩につかまって!」などと言っても説得力がない。共倒れになって救急車が2台必要になりそうだ。

通りがかりの男の人に頼もうかと提案したのだが、大丈夫の一点張り。
おばちゃんだったら、もうそんなの無視して「ちょっと、そこのお兄ちゃん、手伝って!」などと無関係な人を巻き込むんだろう。
わたしだって十分すぎるほどおばちゃんなんだけど、昔からそういうことができない。変に相手の気持ちを尊重しちゃうというか、「大丈夫」をそのまんま受け取っちゃうというか、自分の考えを押し付けたくないというか……。

この、自分の考えを押し付けたくないというのは、わたしの場合あらゆるものごとに対してその傾向にある。これが強すぎて、押し付けたくないというのを押し付けちゃうこともあるのだけど。
今回、腰が立たなくなったおじさんに会ったり、こんなインタビューを読んだりしたので、病気のひとや具合の悪いひとへの処し方について考えてみた。

以前にわたしはガンになったことがあるのだけど、そのことを親に告げて以降、実家に帰るたびに、そこには両親が買ったらしいガンに関する本が増殖していた。
ガン治療に関して基礎的な内容が書かれたものから、東洋医学、代替療法から近藤誠医師の本まで、実にバリエーションに富んでいた。

入院すると、姉は江原啓之さんの本を持ってきて、姉がスピ系だったことと、それにまったく気づかなかったことに心底びっくりした。べつの友人も「このひとは大学教授で怪しくないから」と魂に関するなんちゃらの本を持ってきた。このときにこうしたスピリチュアルという娯楽の分野があることを知った。
さらにべつの友人は、所属している宗教団体の会報を1年分まとめて持ってきた。

退院後は、母が巨大なジューサーを買ってきて、わたしは毎朝それで絞った野菜ジュースを飲まされた。「まずい」とは言えても「もう一杯!」とは言えなかった。

わたしになにも押し付けてこなかったのは、父と、一人の男友達と一人の女友達だけだ。
神様の水だとか、身に着けているだけでガンががんがん消えるお守りとかいう、怪しい民間療法とも言えない代物を勧めてこなかった人がいなかったのは幸いだったと思う。

結局、わたしは治療方針も医師と相談しながら最終的には自分で決めたし、その後の生き方も宗教や占いに頼らないで自分で決めた。
ガンの治療後にある合併症が発症し、大学病院でもさじを投げられたときは、鼻血が出るほど自分でいろいろ調べ、それで見つけたある治療で合併症はほぼ良くなった。
結局、最後には自分なのだと思った。

相手にとって役に立つかどうかは別にして、人のためになにかをするのはやっぱり人間の本能なのかもしれない。
ただ、人のためになにかしたいという希望が本能なんじゃなくて、そうすることで安心したいという欲望が本能なんだと思う。それが「人の為」は「偽り」と言われる理由なんじゃないだろうか。
ほんとうは人のためじゃなくて自分のため。安心したいという自分の欲望のため。


マンションの前でへたってたおじさんだって、だれかにおんぶされたら安心できない。多くのひとは、ひとの世話になることで気分的に安心できない。
かたや、大丈夫かと声をかけ水をあげたわたしは安心できる。人のためになることをしているという安心を得る。

でも、ひとの世話になったひとは、自分の不安と引き換えに相手を安心させてあげられるのだ。
だから、占いの世話になるよりも人の世話になったほうが人のためになるんじゃないかしら。
器用に軽やかにさらーっと人の世話になれるひともいるけど、ぶきっちょでもいいから困ったら困ったって言えるといいなと思う。

・人の世話になれば自分は安心できない
・自分が安心できなければ人のためになる
・ゆえに人の世話になれば人のためになる

あれ、この論法って合ってる?

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