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変化と日常

そんなわけで、25日間滞在した病院から2週間前に家に戻ってきた。
当たり前だが病院ではほぼ上げ膳据え膳で、段差もなければ重いドアもなく、ベッドから起き上がるのだって無理に腹筋なんか使わなくともベッドの傾斜を操作すれば楽に起きられる。
そんな身も心もなまり切った状態で帰宅した当初はすべての動作がつらかった。なにをやるにも通常の3倍くらい時間がかかるし、座っているだけでもつらい(でもなるべく横にならないようにしていた)。薬の副作用でお腹を下しトイレに費やす時間も多く、何もしないまま「あらもう夕方!」なんてことが何日か続いた。
10数年前にもべつの疾病で開腹手術をしたので、時が経てばよくなることは経験としてわかっている、だから焦る必要はないし、医師もそう言っていた。と思いつつ、あの頃はまだ30代、今は50代、状況はまったく同じではない。死ぬまでずっとこんなよれよれだったらどうしよう。いやいや80歳になっても鍛えれば筋肉はつくというではないかと、ネガティブとポジティブを行ったり来たりした。

ところで、わたしは飽きっぽいので変化がないとどんよりしてしまう。退院してからこっち、あきらかに自分の体が変化していることがとても興味深い。
外を歩ける距離が伸びてきているし、(まだ遅いけど)歩く速度も徐々に速くなってしている。
食事量も入院前に比べてかなり増えている。これは手術してから改善されたことで、わたしは2年くらい前から徐々に食べられる量が減ってきて、だんだんとなにを食べても腹痛を起こすようになり、入院直前は嘔吐も加わりほぼ食べられない状態だった。

これら今の変化はマイナス状態からのスタートだけど、それでもプラス方向の変化というのはとてもよい気分にしてくれる。希望をもたらしてくれる変化が楽しい。
もちろん変化といっても不調になるといったマイナスの変化は嫌だけど。

日常ってルーチン的な、というか「いつもの」という二重表現ともとれる修飾語がついてもいいくらいの概念だけど、変化することによって「いつもの」日常を取り戻していくんだなーと思った。
そして健康な状態であってもいつもの日常を維持するために変化が必要だと思う。たとえば、適度に健康に配慮した生活をしていなければ、生活習慣病になって日常が維持できなくなるかもしれない。だから人間は常に(ものすごく小さいことでもいいから)変化する必要があると思う。
今のわたしは、傷が癒えてくるといった自分には手が出せない肉体の自然な変化と、自分が動くことによる人為的な変化が両立しているといった感じだ。

ついでに入院中暇だったので、わたしが変えたほうがいいと思う習慣を洗い出しておいたのをあげてみる。

  • ケチらない

  • 常識(幼少期からのすりこみ等)を疑う

  • 自分の欲望に忠実になる(妥協しない)

50ヅラ下げてこんなこと言うのもアレだけど、上記のどれも未だに育った家庭環境や周りにいた大人たちに影響されていると思っている。また、この3つは互いにリンクしているっぽい。

「ケチらない」については、大人がこんなことにお金をかけるなんてもったいないと言っていたものに自分がお金を使うのにはやはり躊躇がある。だけど、それが必要なのかどうかを自分のなかの常識を疑ってみる。そしてそれが必要ならば、定着してしまった常識を乗り越えて欲望に従って使うべきお金を使う。もちろん使える範囲でだけど。
べつにこれらのことはお金だけのことを言っているんではなく、最近わたしは妥協しないために自分の希望をちゃんと伝えるということをし始めている。たとえば飲食店で小上がりの席を案内されそうになったらテーブルにしてくれないかとお願いしてみたり、薬を飲むためのお水をもらったりしている。
前だったら、靴を脱いだり履いたりが体調的に厳しいのに店員さんの案内に従ったり、頼むのも面倒くさいと思って薬はお茶で飲んだりしていた。
遠慮というのもあったけど、小うるさいババアだと思われたくないというような自分を良く見せたい変な見栄があったんだなーと思う。

そんな程度のことだけど、いつもの日常の幸せのために自分もちょっとずつ変わっていきたいとこの期に及んで決心したのだった。

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