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自分の不幸は蜜の味

公私共にいろんなひとに接しているけれど、人間にとって、自分が幸せであることを認めることは、けっこう難しいのかもしれないと思うようになった。

特別扱いされなかったと文句を言うのはありがちなんだけど、特別扱いしてあげても文句を言う。

とくに急いでもいないし、予約制でもないのに、明らかに混んでいるのに、早くしろなどと文句を言う。

自分ばかり仕事をさせられているとか、部下がまったく仕事のできないやつだとか、毎日残業しなきゃいけないなどと文句を言う。

暑い、寒い、雨だ、雪だ、電車が遅れた、風邪をひいた、店員の態度が悪い、テレビが壊れた、洗濯物がたまっている、目が小さい、鼻が低い、お金がない、彼氏がいない、ワンオペ育児で大変、だれかにいじわるされる、猫が新聞の上で寝ていて読めない……。

まだまだ書けるけど、やめておく。でも、書き足りない。ネガティブなネタだったら、いつまででも書けるのに。
だけど、幸せネタを書きなさいと言われたら、こんなにすらすらとは書けない。
なぜなら、わたし自身がいつも文句を言っている人間だからだ。
他人様の不満や文句を聞くと、「まあまあ、大したことでもないんだからそんなこと言わずに」と思いつつ、同じ立場になったら自分も同じこと言うかもしれないなとちょっと後ろめたくなるのだ。

わたしは他人にあまり興味がないので、ひとの不幸も幸福もともに蜜の味ではないけれど、自分の不幸は蜜の味なのだ。
あたしってなんてかわいそうなの! って言語化はしてないけど、そういう感情はもっていると思う。

子どものころ、雪が降ったり台風が来たりしたら、わくわくした。
大人たちが、やれ雪かきしなきゃだの、近くのドブ川が溢れないだろうかなどとわーわー騒ぐもんだから心配するふりをしていたけれど、子どもにはこの非日常が、それこそ蜜の味だったのだ。

いつからか、雪だるまよりも電車が動くかどうかに興味が移り、びしゃびしゃになるのがわかっているのに大雨のなかを出勤しようとしたり。
それなのに、なんでこんなときに仕事に行かなきゃいけないんだろうと、不幸のドツボにはまっていく。
こういう不幸が日常化する。

悪天候のなか仕事に行きたいのは自分なんだから、こんな状況でも仕事に行けてラッキー♪と思えばいいのに。
本当に行きたくなかったら、家でのんびりしていればいいし。会社のひとたちには「台風だから来ないなんて信じらんない!」って思われるかもしれないけど。
そう思われても構わない、自分は休むというほうを選ぶのか、そう思われたくないから仕事に行くほうを選ぶのか、自分で決めれば不幸にはならないんだと思う。命を奪われるわけじゃないんだし。

あくまでもわたしが生きている環境においてはだけど、突発的ななにかが起こらない限り、不可抗力によって不幸になることはほぼない。
なのだから、不幸じゃなくて幸せをエサに生きていければいいなと思うのだ。無理やりポジティブシンキングもいいけれど、できれば自然にそうなれるといい。

それでもどうしようもない不満を持ったら、文句を言うよりも、その不満の元を排除するとか、不満が満足になるような策を取ったりしたいと思うのだ。「不幸=幸福」になってしまわないように。

あ、猫が新聞の上で寝ていることには解決策は不要。たとえ新聞が読めなくとも。これに限っては、不幸=幸福なのですよ。

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