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素直になるのに必要なこと

先だって、わたしよりも一回りくらい年上のひと ―ここではAさんとする― に、苦言を呈させていただいた。なんだか変な日本語だけれど、あえて「させていただいた」と書かせていただく。

「苦言」の内容は大したことではなかった。詳細は書けないので、例えて言うなら「食べ終わったらお皿は洗ってくださいね」程度のことだ。

その程度のことだから、黙っていてもべつにかまわない。
鍵をかけないで留守にしてしまう、というような、ちゃんとやってもらわないと危険なことが起こる可能性があるものでもない。
お皿くらいだったら大した労力ではないから、プンスカしなながらも、わたしやほかの人たちがやればすむことだ。

でも、1回こっきりのことではない。Aさんにそのことを言わないと、わたしたちは永遠にプンスカしながらお皿を洗うか、慈愛をもってあきらめるかのどちらかの行動を永遠にしなければならない。
ほかの人たちはともかく、ちっさいわたしが慈愛で乗り越えることは困難を極める。
実際、ほかの人たちも、Aさんがお皿を洗わないことにやや不満げでもあり、ほかにやる人がいなかったらどうなるんだろうという不安も少し持ち合わせているように見えた。

Aさんにお皿を洗うように言わなければならないだろうか。
みんなのためにもAさんのためにも。

いや、ほかの人たちのことはどうでもいい。
どうでもいいというか、ほかの人たちの不満を解消するために♪、なんて使命感を自分が持っているふりをしてはいけない。
かたや、Aさんがそのまま気づかなければAさんのためにならない、なんていうおせっかい的正義を正当化してもいけない。
それは結果的に他責に基づく行為になる。

そうじゃないんだ。
わたしがイヤなんだ。
Aさんがお皿を洗わないことに対して、わたしが「イヤだな」と思っているんだ。
だから、自分のためにちゃんと言おう、と思った。

でも、言い方には気をつけなければいけない。
わたしはただでさえ物言いがストレートすぎるので、責めているように聞こえる口調にならないように。そして口角を上げて笑顔で。
そこのところは、わりに気をつかいます

そして……

「あの〜、Aさん。食べ終わったお皿はちゃんと洗っていただけると助かります。衛生的にもよろしくないし。ほら、ゴキちゃんがお皿ぺろぺろしてたらやじゃないですか〜。ははは」
みたいな。(結局最後は笑ってお茶を濁すのか、というところはわたしの弱いところで……)

「え? 洗ったよ」
Aさんは洗ったつもりでいたようだった。
こっちこそ「え?」である。

Aさんにとっては洗ったつもりだったお皿が、わたしには洗ったようにはぜんぜん見えなかったのだ。
洗ってあるとは思えないお皿は、洗っていないのと同じだ。

「油がついてたからぁ、洗っていないのかと思ってぇ、洗っちゃいましたあ。でもぉ、もうちょっとぉ、ちゃんと洗ってくれるとうれしいですぅ」
とわたしは口角をさらに上げてガミースマイルになるのも気にせず、語尾をアホみたいに伸ばしつつ言った。
そのとき、Aさんはそれ以上言い訳もせず、ムッとした様子も見せず、「わかった。ごめんね。これから気をつけるね」と言った。
その日はそれで終わった。お互いに特段イヤな気分にもならなかったと思う。

次の日、Aさんが「昨日はありがとね」と言ってきた。
わたしは昨日のことをすっかり忘れていたので、何のことかと問うと、
「昨日お皿のこと言ってくれたじゃない。言われなかったらずっとわからなかったから、言ってくれて助かったよ。それに、すごくアサーティブな言い方だった」
とAさんが言った。

勝ち負けじゃないのはわかっているけれど、でも、それを聞いてわたしは、負けた、と思った。

実はAさんは、キャリアカウンセラーでもある。そのせいか「アサーティブ」なんて言葉が普通に出てくる人ではあるのだ。

ただの想像だけれども、一日たってから改めてこんなことを言ってきたということは、Aさんの中でもちょっとした葛藤はあったんじゃないかと思う。
年下に注意されて素直に受け入れられるかというと、微妙なところがあるのがむしろ普通じゃないだろうか。にんげんだもの。

でもAさんは、自分のその微妙な気持ちとちゃんと向き合ったのだ。今まで培った知識と照らし合わせつつも、自分の気持ちと向き合い、年下の人間のいいところも認めたうえで「ありがとう」と言えたんじゃないだろうか。

わたしだったら、年下のくせに生意気だとか、もっと違う言い方できないんだろうか、とか思って一日中もやもやしてしまうだろう。
でも、そこで単純に「素直にならなきゃ!」みたいな根性論だけで素直になろうとしても、なかなか難しいのかもしれない。

Aさんは、キャリアカウンセラーだから「人周り」のことをかなり勉強しているようだ。
その知識を習得していく過程で、他人ではなくまずは自分を実験台にしたんじゃないだろうか。他人を観察して、それに知識を当てはめて、あーだこーだ言っているのではなく。
自分の身に起こったことを、彼女が得た何らかの知識に基づいた観点で自身を眺めることで、理解し、身につけていった。そうやってAさんは素直な人になったような気がする。

だから「今日から素直になる!」と乱暴に筋トレから始まるのではなくて、まずは筋肉のしくみを座学や観察で学んでから筋トレに挑むほうが、結果的に素直さを得やすいのかもしれない、とAさんを見て思った。
知識ばかりでもただの頭でっかちだし、この場合、筋トレだけでは筋肉バカにすらなれない。

Aさんは天性の素直さを持っていたわけではないと思う。
座学で知識を得て、それを咀嚼して実践して自分のものにしてきたAさんだからこそ、いくつになっても、誰から何を言われても、素直でいられるのだと思う。

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