見出し画像

ミニマリストの弊害

わたしは無駄なことが嫌いだ。嫌いなんだけど、頭が悪いからなぜか無駄なことばっかりやっている。
しかし、勝手なことを言うようだけど、他人がなす無駄なことによって迷惑を被るのはごめんだ。すいません。

最近とくにがまんできないのが、無駄な話だ。
更年期のせいなのか(なんでも更年期のせいにする)、最近異常に気が短くなっているので、話の長い方々に噛みついたりしないか自分で自分が心配だ。

なにかを伝えられるときは、必要なことだけ伝えてほしい。
「結論を先に」なんてことがビジネスの場ではよく言われるが、一概にそうとも言えないとは思っている。
でも、延々と前置きを聞かされ、結局言いたいことはそれだけかいってことはままある。

セミナーや講演会などの質問タイムでも、質問だけすればいいのに、まず自分のことを長々と話して、肝心の質問にたどりつくまでが長いひとがいるけれど、そういう無駄なことでひとの時間を奪っているのですよと怒りに震える。

とはいえ、わたしのようにあまりにミニマリストな話者でも、世の中ではダメなようだ(noteではこんなにぐだぐだと書いているのにね)。

日常のおしゃべりはべつとしても、なにか人前でしゃべらないといけないとき、わたしの話す時間は短すぎると思われるらしい。
「え、それだけ? あとは?」と相手が戸惑っている様子が見てとれることも多い。
でも、これ以上なにを話せっていうのと思う。資料があるときは、それを見てもらえばいいことだし、そのために事前に配ってもいるんだし、わざわざ資料をあたまからわたしのだみ声で朗読する必要はないと思うのだけど。

面談のようなときでも、わたしはあなたの質問に答えているだけで、もっと聞きたいことがあれば聞いてくれればいい。
自分の言いたいことだけを相手に押し付けるように話すのは失礼なんじゃないかと思う。いや、あなたの知りたいことを訊いてほしいと思うことのほうが傲慢なのだろうか。

ひとは基本的に相手の話をあまりよく聞いていないと思う。
ちゃんと聞いていれば、(適切に話していれば)言葉数が少なくても基本的な情報は得られており、そこから掘り下げて会話を進めていけばいいのだ。
聞いていなければ、聞き手からの会話を掘り下げることができない。ちゃんと聞いていないから、相手がたくさん話せばちゃんと話してもらえたと思い、ちょっとしか話さなければ情報が少ないと思ってしまうんじゃないだろうか。

要するに、なにを話したかじゃなくて、相手がどのくらいの時間話したかというものの平均値を、ひとは(具体的に何分とかではなくて)感覚的に覚えていて、それより長かったり短かったりすると違和感を覚えるのだと思う。
違和感のない時間話してもらえれば、情報は得られたと思い、違和感を覚えれば、情報が得られないあるいは話が長いと感じてしまう。

わたしも言葉が足りないところはあると思うけど、さすがに「ごきょうだいいるんですか」と訊かれて「いますよ」とだけ答えるほどぼんやりしているわけではない。

だけど、わたしの短すぎる話はやはり物足りないようなので、お話しにもうちょとお肉を付けていかないといけないわね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?