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利益と売上と星の数

何があったってわけではないんですけど、木枯らし一号が吹くか吹かぬかというころだったでしょうか、そのあたりから、ネットの中をウロウロすることができなくなりました。
「何らかの理由で自分がウロウロしたくなくなった」というのが正確な言い方かもしれませんが、どうも被害妄想的な性癖のあるわたしは、自分の本音を直視せず、「ウロウロできなくなった」などと、なんだかひとのせいのようにしてしまいます。いけませんね。

具体的に言いますと、常日ごろから拝見していた人様のブログや、ニュース・ビジネス記事がほぼ見られなく……、いや見たくなくなりました。
とくにFacebookとTwitter、そしてこのnoteは、一旦はもうごちそうさまというところまでいきました(その後、無事に回復)。
ヘンなカタカナが宙を舞うのに我慢ならず、若いひとが、若いのに年かさのサラリーマンのような「べき論」的な記事を書くことに辟易し、……って悪口はこのへんでやめておきましょう。

とにかく、少し前まで、フィードやブックマークやフォロー先を総削除ぐらいの勢いで、拒否反応が激しく反応していました。変な日本語ですけど。
その代わり、今まで欠かさず見ていたわけではないようなものを、毎日楽しみにするようになりました。

毎朝のコーヒータイムに、グルメのプロのブログを読んで、彼の感性と文章力と健康的な食欲に、なぜか自分までもが食欲旺盛になり、スキウサギとかネコノヒーとか砂岡さんに会って平和な世界に浸り、そして愛しのくまちゃんの奮闘を見て、よし自分も生きるぞ、などとその日の意欲を沸き立たせるようになりました。
それが終われば、あれだけの膨大な情報の中から何をどんなに探しても、読みたいものも見たいものも、何ひとつ出てきやしませんでした。だから、本はたくさん読めてよかったです。

こういうときは映画を観ても、(わたしにとっての)ハズレばかりです。
詳細は書きませんが、あまりのハズレっぷりに、おケツとお腹が痛くなり、顔面神経痛にまでなるという有様でございました。
普段はどんな映画を観ても、どこかに面白みを見いだせるほうなんです。それができないとは、なんということでしょう。

こんな感じのどよよよんとしていた2017年の冬ですから、文章なんて書けないわけです。もとい。書く気にならないわけです。
多少無理してでも書いたほうが、はやく調子を取り戻せたのかもしれませんけど、自分を奮いたたせるという意欲の欠如した怠惰なわたしは、書かないことに自分に対しての罪の意識を感じながら、それについてもお茶をにごしていました。

正月になると、何かとやる気を出そうとするのが多くの日本人の習わしでして、ご多分に漏れずわたしもその一人でございます。
新年なんて、12月が終わって1月が来ただけじゃねえか、6月とどんな差があるってんだいなどと居直り、「今年の目標」なんてものを立てることを放棄してはや数十年。
しかしながら、日本の新年に独特のキンとした空気に触発されて、目標は立てずとも、やはり一つくらい何かをやらねばと思ってしまうのです。それが長続きしたためしはありませんけど。
そのいっときの空気にたぶらかされて、お正月の二日目だったでしょうか、たいそう久しぶりにnoteを書いたわけです。

わたしは去年の4月にnoteに入ってきた比較的に新参者なんですが、その前ははてなブログで記事を書いておりました。
わたしのようなスキルのない者は、はてなブログを土俵にしていると、自分のFacebookでシェアしない限り、通りすがりのひとが読んでくれるなんてことは、ほとんどありません。
ところが、noteに来てみたら、びっくりすることに、見ず知らずの方たちが立ち寄ってくれるじゃありませんか。記事を公開して半日程度で何十人かのひとが、少なくともページを開くというアクションをしてくれるのが常でした。

しかし、先だってのお正月のお久しぶりnoteは、今の時点でアクセス数はたったの12です。こんな弱小noteではありますが、こんなに少ないのはあまりありません。
長いこと放置するとやはり目につかなくなるのでしょうか。でも、始めたばかりのころでも、もう少しアクセス数は多かったので、解せません。
公開した時間帯などによる多少の影響もあるのでしょうし、クリックしたくならないタイトルであったりもするのでしょう。
そこらへんはわたしは門外漢ですし、追究したいとも思いません。「そのあたり」のことについて知見を増やすことに、どうしても興味がわかないのです。そのくせアクセス数は気にするという、大好きな奥さんに素直に愛情表現できない頑固親父のような人間でございます。

それでは何のために書いているのか。多くのひとに見てもらおうとする努力をしないなんて、お前の文章は自己満足か、などと思われるかもしれません。ひとに想いが届いてこそ書く意味があるのだ、なんてこともしばしば聞きます。まったくもってそのとおりだと思いますし、多くのひとに見てもらえたら、そりゃあうれしいです。
こうして世界に開かれた場で自分の文章を公開している以上、自分しか見ない日記を書いているわけでは決してありません。日記ならばヒミツの日記帳に書いておけばいいのです。
とはいえ、アンネの日記のように、断りもなく勝手に公開されて、天国から「きゃっ」と思ってしまうことだってありますけど。

って話がそれちゃいましたけど、アクセス数が少ないって話でしたね。
そう、少ないんです。それでもです。12人しか見ていないのに、星(スキ)が8個付いているのです。見てくれたひとのうち60%以上のひとが星を付けてくれているって結構うれしいよね、と思うのはおかしいでしょうか。ちっさ! と思われるでしょうか。

会社勤めをしていたころ、売上は減っても利益は過去最高みたいな年度がありました。
売れないのにちゃんと利益を確保して、うちらってほんっとエライ! とか思っていたんですが、社長はそれではダメだと言います。えーっ、なんでよ!? って思いました。
社長に言わせれば、とにかく売上が大事なんだそうです。利益は多少減っても売上高が上がり続けなければ、会社はいずれダメになると言うのです。
どっかの学者が言ってたことを、そのままもってきたんだろ? と言ってみたかったですけど。

だから、社長からしたら、たかが数個の星でへらへらとうれしがっているのは、まったくもってお話にならないのでしょう。
アクセス数やフォロワーの絶対数が多くなければならない、60%のひとが「いいね」などのリアクションをしてくれても、12の60%ではいけない、と社長はたぶん言うのです。
1Kだか10Kだか妥当な数はわかりませんが、とにかく数が多い上での60%でなければならない、と社長は言うのです、たぶん。

今まで慣れ親しんだメディアにアレルギー反応が出始めたのは、こういう社長が言っている(言ってないけど)ようなところなのかなと思いました。
前々から、なんとなく好きではなかったのですが、それがじんましんのように表にでてきた感じです。

「インフルエンサー」なんて言葉を見ると、ほぼ毎回「インフルエンザ」と読み間違い、なんだか話がおかしいなと思ったら読み間違いで、それで改めて話を読んでいくと、なんだかすごくイヤな気持ちになるのです。

だれもが糸井重里なろうとする。いえ、糸井さんというのは今思いついただけなので、別に糸井さんじゃなくてもいいんです。でも、ホリエモンになろうとするというのと、糸井さんになろうとするのとでは、わたしのなかではちょっと違います。違いを説明すると長くなるのでしませんけど。

この際、糸井さんでもいいんですが、とにかく「そのあたり」のひとたちの多くが昔とは違ったかたちで一花咲かせようとし、それができるのはいい時代だとは思うんですが、一花咲かせることに躍起になり、また「そのあたり」のひとたちは、一花咲かせないとちょっと恥ずかしいし、みたいな風潮があるような気もするのですよ。
あることで有名になった「そのあたり」のひとが、以前の自分のことを「調子が出ていないときは……」なんて言い方をしているのを見て、調子が出た=有名になったってことにわたしは違和感を覚えます。

「そのあたり」の門外漢は、一旦ここらへんでお口にチャックをいたしましょう。
でもね、無視されようが、問題外とされようが、バカにされようが、文章長っ! と思われようが、ある一定の範囲において、書きたいことを書いていこうと思うんです、というお正月効果もありつつ、今日も書けました。
あ、でもやっぱり利益よりも売上ですよね!

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