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ちゃんと言うこと

「人の悪口を言っているときのきみのお母さんはほんとうにきれいだった」みたいな内容のセリフが出てくる小説があった。タイトルも忘れちゃったけど、大崎善生さんの作品だったかなあ。違ったらすいません。今は亡くなってしまったある女性と若いころに付き合ってた男性が、何十年か後にその恋人の娘に言ったセリフだったのは確実。たぶん。

15年くらい前にそれを読んで、一般的によろしくないとされている行為もそんなふうに思えるんだってことがすごく新鮮で、体が打ち震えた(大げさ)ことを覚えている。
だれかの悪口を言いたかったらいい子ぶらずに言う。そういう野性的とも言える女性にその男性は魅力を感じたんだろうと思う。
確かにその女性は親の反対を押し切って大阪万博のコンパニオンになったとかっていう話だったので、けっこうアグレッシブなタイプに設定されていたんだろうと思う。

そんな本を読んじゃってからというもの、私は罪悪感なしに人の悪口を言うようになった。いや、私が悪口言ったところでより醜くなるはずなんだけどのに、だれかを陰でけちょんけちょんにこき下ろして気持ちよくなってた。あのころのわたしは、それが率直であることだと勘違いしていたんだろう。いやもう恥ずかしくて、天岩戸にお籠りしたいくらいだ。
今はお籠りしたいくらいには思えるようになったのだから、まあまあ御の字だろう。

小説のなかで彼女が悪口言っててもきれいなのは、その人が外見的に美しかったのだろうし、アバタもエクボ的なところもあっただろうし、彼女の常識にとらわれない自由奔放さこそが魅力で、彼が惹かれたところだっからなんだろう。わたしの場合黙ってようがいいこと言ってようが変な顔なんだから、悪口なんて言ってたら他人から見たらもう目も当てられない。

本人に言えないことはよそでも言わないほうが「正直」という観点では善いことなんだろう。だけどわたしは自分の考えをひとに押し付けることはあんまりしたくない。
だから、もちろんものごとの内容によるけど、基本的に自分の言うことが正しいことであることを前提に、自分の意見をひとに言うことはあんまりしたくない。

たとえばお金を貸したのに返してくれない場合は、「あのひとお金ぜんぜん返してくれないのよ〜」って第三者に言ってもなんの解決にもならないので、本人に言うのが一番いい。
なんらかのプロジェクトを進めるためにみんなで意見を言い合って、その目的に見合った一番いいポイントを抑えることもできるから、そういうときはちゃんと意見を言う。
だけど、議論するようなことでもないようなことに対する考え方の相違だったりすると、譲ることも相手に押し付けることもできず、すっきりしない。

わたしは相手を尊重しつつ「自分はこう思う」ってことだけを伝えるコミュニケーションができない。よほどの信頼関係がない限り、へらへらと表面上で合わせているか、堪忍袋の緒がぶちっと切れてけんか腰になってしまうかのどちらかだ。

先だって辻仁成さんの日記を読んで、あー、これよこれ! と思った。

「ちょっとうるさいので、歌うのやめてもられないか」
と言われた。法的にこじれると退去しなければならなくなる。[……]なのでぼくは拙いフランス語で謝罪文を書いた。「東京で大きなコンサートがあるのです。出来れば、ライブが終わるまで一番音の影響の少ないキッチンで歌わせてください」という仏文を書き、息子に添削してもらい届けたところ、
「いや、ぜんぜん、問題ないですよ。こちらこそ、失礼しました。でも、夕刻以降は自粛してほしい。私たちも静かに過ごしたいんです」
と優しく諭された。
「もちろんです。申し訳ありません」
「昼間、2時間くらい歌うのは問題ありません」
[……]
「十分です。ムッシュ、ありがとう」
「いいライブをやってくださいね。陰ながら応援しています」

辻さんは自分の主張をすることが大事だという文脈で書かれており、そのことはもちろんそうなんだけど、わたしはそれよりも、文句言いにきたご近所さんが、こんなふうに自分も悪かった部分があったと認めることのほうが、すごい冷静な対応だと思って体が打ち震えた(またか)。わたしなんか一回怒っちゃったら、「あ、これはこっちも悪いかも」という事態になっても、さらにブチ切れてごまかして絶対に謝んないもんね。まあ最近はケンカする相手もいないけど。

自分の要望と、相手を尊重した上での妥協点を提出する。辻さんの例で言えば歌の練習を完全にやめるのでもなく、朝から晩までうるさい思いをするのでもなく、弁証法的に第三の解決策を出している。
こういうことって日常的にできる機会はいくらでもあるから、日々意識的にやっていきたいと思った。あんまり頭でっかちっぽくならない程度にね。

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