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そこいらにいる人間なのだ

友人たちと11月に沖縄に行く話が持ち上がっていた。彼らとは昔々ちょっとした苦楽を共にした間柄だ。
今回は遊び兼合宿のようなもので、有志が1年前から企画をあたためてくれていた。

沖縄には行ったことがないので、この機会に行ってみたい、ひとりで前泊か後泊でもして沖縄を楽しんでもいいかなと思っていた。

もちろん久しぶりにみんなにも会いたい。……というのは嘘じゃないにしても、100%本音というわけでもなく、みんなと一緒に楽しめるかどうか、今ひとつ確信が持てなかった。
飲み会くらいならほいほいと行くんだけど、遠方で彼らと泊まりとなると、気心の知れたひとたちとは言え、自分が疲れてしまわないか心配だった。

最終人数の確定にはまだ時間があるのをいいことに、わたしは行くか行かないかの決断をぐずぐずと先延ばしにしていた。
面倒くさいことが嫌いなので、普段はわりになんでもさっさと決めてしまうことが多いのだけど、今回はなぜだか決断できなかった。
「行く」「行かない」と花びらをぷつんぷつんとむしりたくなった。

たぶんみんなハイテンションだと思うので、それに途中で息切れしてしまいそうなこと。
個人的に起きたなんらかの現象に対して理論であれこれ分析するのが好きなひとたちなので、それに対して自分が反発してしまいそうなこと。
独立や起業、あるいは海外で活躍をしているひとも何人かいるなかで、自分はなにも成し遂げていないと劣等感を抱きそうなこと。
自分はここにいてもいなくてもいいんじゃないかといじけてしまいそうなこと。
心配していたことは、こんなようなことだ。あくまでも起きていないことを勝手に想像しているにすぎないのだけど。

彼らと一緒にいて心持ちがよくないのなら離れればいいだけなのだけど、そうすることを躊躇するなにかがある。
わたしは、彼らと引き続きつながっていたいと本心から思っているのかどうかがずっとわからなかった。

最近、自分が変わったことを自覚した。
サラリーマンを辞めて2年半近くになるが、バイトや派遣をしつつも、基本的にはぶらぶらしている。
そのくせ内心では、なにかをしなければとか、なにものかにならなければと焦っていた。「どう? すごいでしょ」とひとに堂々とアピールできるなにかを探していたのだ。
だけど最近になって、「べつになにかを探さなくてもいいかも」と思うようになった。
そうしたら、長らく持っていた変なプライドがあっさりなくなった。わたしはそこらへんにいる人間であり、そもそも元からそうだったのだし、そして、それでべつにいいんだと思った。

そこいらの人間であることを自覚したら、もう確認する必要がなくなった。
ハイテンションでハイソな友人たちと会って、自分はなにかを成し遂げようとする意志をもった人間であることの確認は不要になった。
だから沖縄に行く必要もなくなった。

沖縄行きを迷っていたのは、自分がただのなんにもできない人間であることを認められなかったからだ。
彼らといれば、自分はいつかなにかを成し遂げなにものかになるんだというテンションを保ち続けていられるんじゃないかと思っていた。
忘れたころにやってくる災難のように、あきらめかけたころに彼らから栄養をもらい、モチベーションを上げようとしていたのだ。

友人たちとは、栄養をもらおうなどという下心なしで今後も付き合っていきたいと思うし、ありふれたそこいらの人間は、沖縄には純粋な遊び目的で行きたいのだ。

※見出し写真は沖縄じゃなくて相模湾です

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