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お醤油取ってくれますか

先だって昼食をとりに入った店で、二人がけのテーブルに通された。人が一人通れるくらいの間隔をあけた隣のテーブルでは男性が食事をしていた。
その店ではいくつかの調味料が小さなトレーの上にセットになっていて、料理が運ばれてきたときお店のひとから「調味料は一緒に使ってくださいね〜」と隣のテーブルの調味料を指さされた。えっ、あいてる席から持ってきてくれればいいのにと思ったし、すでに食事を終えそうな段階にある隣の男性からも「もう使ったからどうぞ」という言葉もなかった。
醤油などかけるものがなかったからいいのだけど、もし必要だった場合でも、腰を浮かさないと届かないところにある調味料を取る勇気がなく、味のしないなにかをもそもそと食べたことだろう。

こんなことはどうってことないでレベルのことかもしれない。もしかしたら取ろうとすれば隣のひとが察して渡してくれるかもしれないし、そうじゃなくても「すみません、お醤油取っていただけますか」と頼めばすむ話だ。一応ここまで生きてきてそれなりに訓練されているので言えないことはないけど、本心としてはあまり気が進まない。言い換えればそうすることがわたしにとってはごく自然なことであるとは言いがたい。

別の日のこと。いつも以上に混んだ電車のドア付近で、わたしのすぐ傍にいた女子高生が止まった駅で降りたかったらしいのだが、その駅で開くドアは反対側。そしてこの近辺の皆さんはだれも降りる様子がない。女子高生は「すみません」のひと言すら言えず、かといって押しのけて降りようとするわけでもなく、次の駅まで運ばれることになった。
わたしは自分のことじゃなければ声を出すのはわりに平気だし、意図せず衝動的にそうしてしまうこともあるので、「すいませーん、降りるひといるみたいですー」って言いそうになったけどあえて言わなかった。べつに教育的指導というわけではない。東京じゃ声をかけたってどいてくれないひとがいるのに、こんな状況で黙って降りられると思ってる彼女のことが理解できなかったからだ。理解できないことに対して助けをすることはないと思ったのだ。自分でも冷たいと思う。
だけど今考えてみたら、黙って降りられるなんてことは彼女は百も承知で、だけど、たぶんシャイで行動に移せなかっただけなのかもしれない。70cm先にある醤油を取れないおばさんも同類じゃないか。なのになんで理解できないとか言うのか自分。

あえて善悪で分けるとすれば、この世は積極的=善、消極的=悪が一般的である。あとは、外向的=善、内向的=悪とかね。わたしだってそう思うところがないとは言えない。でも国民総陽キャだったら気持ち悪い。想像しただけで胸焼け。
醤油を取れないような、あるいは激混み電車から降りないといけないようなシチュエーションに立たされたとき、いつも親(母)の声が聞こえる。「そんなの気にしすぎ」だとか「そんなこともできなくて(言えなくて)どうすんの」とか。そう言われるのが悔しい&恥ずかしい&見返してやりたくて、ずいぶんと訓練を積んだ。問合せなどの電話をするのが苦手なのに(問合せに限らず電話全般が苦手)あえて積極的かつ迅速に電話を掛けたりとか。

そうやって図太い人間になる訓練をしたら、そこそこ図太くはなれた。そのおかげでここまでなんとか生き残ることができたので、悪いことではないんだが。
とは言え、今はネットでいろいろできるようになったけど、たまに電話でしか受け付けてくれないところがあると、すぐやる課のわたしもずるずると後回しにしてしまう。図太くはなったものの、苦手なことが平気になったんじゃなくて、感覚を麻痺させて無理くりやっているからだ。

子どもの頃はだれとも話せないくらいシャイで友達もいなかったのに、突然変異で今は超明るくて積極的になりましたと言う大人がときどきいる。だけどその逆の存在は少なくともあまり表には出てこない。
外向的で積極的なほうがなにごとにおいても得ではある。悪いことをしているわけじゃないのに、内向的なひとは損をすることが多いように思う。いじめやパワハラの対象にもなりやすい気がする。

消極的・内向的だからって責められるいわれはない。だけどその一方で、そういうひとだってここぞというときには前に出る勇気を出した方がいいとは思う。
常におしゃべりしているからといって外向的とは限らない。しょっちゅうおしゃべりしているのに、公の場ではなにも言わず、影で個人的になんか言ってたりするひともいるし。なので、おしゃべりと外向的とは違うし、積極的とも違うと思う。だけど、なんとなくおしゃべりなひとのほうがうまいことしている気がする。言ったもん勝ち的なところがあるのだろうか。

みんな違ってみんないいと言いながらも、人々の頭には意識的にも無意識的にもひとのあり方の正しさというものが染みついている。
信じられないことだけど「これこれこうじゃないとひとから選ばれない」とかいうことを説いて、ひととしての善さを固定しようとするひともいる。そんなに一律にしたいのか。
とは言え、わたしだってうっかりしていると善悪固定化の方に流されてしまう。理屈ではわかっていることを本能に反映させるのはなかなか時間がかかるけど、正しさを固定しない方向に世界が変われば自分も簡単にそっちに引きずられるだろうという他力本願はいけませんかね。

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