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「私」のいないコンテンツ

先だって、あるドキュメンタリー映画を観た。
夢を叶えようとする女の子を追う内容の映画だったが、途中からその映画の監督が登場してきた。
監督が映像の中に登場するだけでなく、彼女をサポートし始めちゃうところも、ちょっと変わっているなと思った。

子供のころ、「生きもの地球紀行」みたいな番組を観ていて、もどかしい思いをした覚えがある。
シマウマさんがチーターみたいな肉食動物に追っかけられているところを人間が見ているのに、だれも助けてあげない。逆に草食動物に逃げられて餓死しかかっているライオンなんかがいても、放ったらかし。
なんでそれを撮っている人間は、動物たちを助けようとしないんだろうと思っていた。

それが自然の摂理だから、人間が手を出しちゃいけないということは後にわかった。
ある人物を追うドキュメンタリーも同じで、もどかしいと思いつつ、その人の自然の物語を他者が壊してはいけないんだと納得しようとしていた。
だから、冒頭のような監督がある人を助けてあげる映画にほっとすると同時に、違和感も抱いた。

映画監督と役者を兼務する「北野武」兼「ビートたけし」のような場合は別として、フィクション、ノンフィクションにかぎらず、映画監督も脚本家も原作者もスクリーンには登場しないものだと思っていた(ドキュメンタリーで声だけの登場はあるけれど)。
小説も音楽も然り。『わたしを離さないで』にカズオ・イシグロは出てこない。第九の中にベートーベンは出てこない。
そのコンテンツにいちばん深くかかわっているひとが、行間にも音符と音符の隙間にも登場しない。

夏の終わりに、友人とワークショップ(のようなもの)を行った。先日、その振り返りをしたときのことだ。
友人が「もっと思いを届けたかった。たとえば落語とか演劇なら思いなんて関係ないけど、ワークショップっていうのは思いをちゃんと伝えないといけないと思う」みたいなことを言い始めた。
わたしは、それにはちょっと賛同できないかなと思った(もちろん、それを伝えた)。

落語だろうが、芝居だろうが、そこにはそれなりの伝えたい思いがあるんだと思う。それを直接言葉にするかしないかだけの違いだ。
落語や芝居や映画や小説、その他諸々のオブラートに包んで、思いを伝えている。心のこもらないハンバーガーショップの、機械的に作られたハンバーガーのようにとらえてほしくないと思った。

ワークショップやセミナーといった類のものは、提供者が主人公だ。
だから、ワークショップ慣れしているその友人がそういうことを言うのもわからないではない。
彼らは、「北野武兼ビートたけし」的な感じとも違う。監督と役者という役割を分けないまま、コンテンツをつくるのも、提供するのも同じひと(たち)が行う。

彼らは「私」そのものを、自分が提供するコンテンツに匹敵するレベルにしなければならない。そうでなければ、利用者を納得させることはできない。
自分を磨き、アピールする。大変だなぁと思うけど、彼らはきっとそういうことが苦にならないんだろう。
「私が、私が」と言わないと、コンテンツの利用者はついてきてくれない。その「私が、私が」は必要なアピールであって、別に悪いものではない。

それとは逆に、映画などのコンテンツのつくり手は、「私」を消す。
経歴が立派であろうがなかろうが、普段の行いが良かろうが悪かろうが関係ない。輝かしい過去と今を披露しなくてもいい。
生み出すコンテンツが価値のあるものであれば、それでいい。

そのためには、「自分磨き」のためのインプットばかりじゃなく、「恥さらし」のための、広い意味でのアウトプットもしないといけない。自分をいったんさらさないと、「私」を消すこともできないんじゃないかなと思うのだ。

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