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『異端の鳥』に出てくるひとたちは残酷なのか

勇気を出して観に行った『異端の鳥』。公開当初から上映スケジュールをチェックしつつ、行こうかなー、でも怖いなー、でもやっぱり行こうかなー、いやいや、Amazonで観られるようになったらちっさいPC画面で見ようかなーなどとぐずぐずと一歩歩いては二歩下がっていた。

わたしの場合、映画は自分で能動的に選んで観るというよりも、だれかがすすめていたからとか、映画館基準(なんとなく映画が観たいなというときは、好きな映画館の上映作品を片っ端からチェックしていく)でなにを観るか決めることが多い。なので、「映画が好きなら絶対に観たほうがいい」という整体の先生からの強いおすすめに背中を押されてドキドキしながら観に行った。

聞きしに勝る残虐性に最初からおののく。主人公に次から次へと降りかかる残酷すぎる不運は、そのわんこそばのような連続性がちょっとコントのようで、不謹慎だけどちょっと笑う。笑うくらいの余裕かましてないと、3時間近くの映像を観ていられない。それでも、持参した飲み物をちびちび飲んでも喉はからからになり、背中はかたくなり、寒くもないのに足先は冷えた。

この映画の本質はそういうところにはないはずなんだけど、やっぱりこの行く前から感じる怖さはエンターテイメント的な怖さじゃないだけに怖い。ゾンビ的な怖さじゃないだけに怖い。この映画に出てくるひとびとの行動は、もともと自分にも備わっているのかもしれないと思うから怖いのだ。

わたしは基本的にはひとの振る舞いは、外的要因によってそのやり方が決まると思っている。所属する国、社会、コミュニティ、あるいは信仰する宗教などによって、振る舞いだけじゃなく、価値観をも決まると思っている。タイムマシンでちがう時代に、あるいはどこでもドアでちがう地域に行ったら、今の自分が正義だと思っていることは容易にひっくり返るかもしれない。
そして、ぼんやりしていれば振る舞いも価値観も大きくは変わらないけれど、力を振り絞ってそこから抜け出した者は、もとの所属からは異端とされるし、正義に反するとされる。

ひとは、自分の価値基準から見て不条理と思える場面を見れば、正義「風」のものを振りかざしてやいのやいの言う。でも、自分がその時代のその地域のそのコミュニティに属してその宗教を信じる立場にいたらどうだろう。わたしは自分のなかに普遍的な正義や倫理があるとは思えない。

友人が会社のちょっと意地悪なひとの話をしてきたとする。友人はわたしを味方だと思っているから、当然自分は正しく相手は間違っているというムードで話し始めるし、わたしもそういう態勢で話を聞く。
でも、ふと思うのだ。自分がその意地悪なひとになる可能性だってある。わたしたちは今ここで仲良くお茶を飲んでいるけれど、出会い方によっては敵対した可能性だってあるのだ。

その意地悪だと認定されちゃったひとも、意図的に意地悪をしようとしているのではないかもしれない。仕事上必要な注意をしたか、あるいはちょっと気分屋なところがあり虫の居所が態度に出たのかもしれない。
わたしも実際に昔、職場の後輩がわたしからいじめられたなどと触れ回っていたことが後から判明したことがある。わたしはいじめたつもりはなかったけど、そう思わせてしまったわたしにも原因があるんだと思う(口調がきつかったとか)。それ以来、ひとの行動の一面だけ、聞いた話を一つの視点だけで判断しないように注意深くあろうとしているつもり。

だから残酷な人々を見て、ひどいとか許せないとか真正面からはなかなか言えないのだ。
わたしがあの場、あの立場にいて、多数派の人間に逆らってまでその不条理を是正しようとするだろうか。たぶんできないししない。それは彼らだって同じだ。彼らが生まれ変わって現代の日本人になったとしたら、うわーひどい、残酷すぎ、などと言うだろうし、自分は絶対にあんなことはしないし、そういう発想すらないと言うだろう。

***

ところで、この映画の原題は「The Painted Bird」というらしいが、そのほうが邦題よりもしっくりくる。
主人公は異端であるのではなく、異端「視」された。国や社会、宗教などがそれらの価値観で勝手につくり上げた正義があって、それに見合わないものはPaintされて区別(差別)される。そのPaintを目印に正当化された(残酷な)排除が許され、実行される。

当時のひとびとにとっての正義は、その残虐性を伴った行為によって達成される。
現代人だって同じようなことしてないだろうか。精神的残虐性によってランダムにひとをPaintし、昔とは手法を換えて痛めつけ、場合によっては間接的に命を奪うこともある。
現代人はどんな立場にあっても普通はひとを殺さない。倫理観はたしかに知識の上では進んだかもしれない。だけど、わたしたちのもつ倫理なんて偽善でしかないか、偽善にもならない表面的なものが多いと感じる。

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映画を観たときにたまたま読んでいた本に(設定はぜんぜん違うけど、おうちに帰ろうとする主人公が、わんこそば的に不運と残酷さに遭遇するところが映画とちょっと似ている)こう書いてあった。

彼はそれを「反対の法則」と読んだ。彼によれば人の真実の像は、本人が他人にこう見てほしいと望んでいる像とは、反対のものである。もし人が誰かを理解したいと思えば、相手の影を捉える方法を会得しなくてはならない。[……]私たちが最も恐れなくてはならないのは、常にくどくどと善について説いている人間だ。
マーセル・セロー『極北』(村上春樹訳) pp. 352-353)

わたしもくどくどと善について話してしまった。偽善がこの世でいちばん嫌いなことなのに、自分がなにを言っても偽善としか自分でも思えない。でも考えたいことなので、くどくどと引き続き考える。


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