見出し画像

個人的な正しさ

世の中って二者択一でどっちかが正しいみたいなことが多いなーと思う。私が正しいからあなたが間違ってるという感じ。まあその方が楽だからかも。

わたしもそういう考えに陥ることがある。議論の内容によることもあれば、相手によることもある。
好意的に受け止めている相手であれば、相手がこちらとちがう意見であっても「それもそうだよなー」と素直に思え、弁証法的に議論が進むことが多い。
でも、これすごく感じ悪いんだけど、自分より考え方や言語能力が劣っているとわたしが勝手に判断している相手とか、あとは家族とかだと、上から相手の言うことをぐしゃっとつぶそうとする傾向にある。
自分が正しいと自信満々で意見を言ったとき、それを否定されて、しかもそっちのほうがいいかもなんて心のなかで思ったときも意固地になりやすい。
こういうのは理性ではなく感覚でやってしまっている。わたしは一生りっぱな人間になれそうにない。

かたやわたしには優柔不断なところもあって、いろいろな主張を本やネットなどで見ていると、まあそういう考えもありうるよなーと思ってしまうのだ。結果、なにが正しいかわからなくなるってことは以前も書いた気がする。

その一方で、だれかがだれかを評価するような話や、噂話などはほとんど鵜呑みにしない。
そういうのがいかに当てにならないかはいつの間にかわかるようになったし、自分の目で確かめない限り、聞かされても同調はしなくなった。
口コミにかんしても客観的な口コミは参考にすることもあるけど、主観的なものはそのひとが店や商品に求めているものが見えるので、その目的がこちらと合致しない限り眺めるだけにしている。
とはいえ、自分の目で確かめたところでそれが正しいかどうかなんてやっぱり怪しい。なんせ好き嫌いで相手の意見を尊重したりしなかったりする人間なのでわたしは。

***

なにが正しいかなんてことは「1+1=2」ということ以外にはなかなか決めがたい。(数字の概念だってそういうものだという決まりがあるにすぎないから、今2個あるどら焼きは3個だよと決めつけてしまうことも可能だったんではと思ってしまうのは、あんまり勉強しなかったからかも)
当たり前に正しいとされること、たとえばお菓子ばかりじゃなくて栄養バランスのよい食事をしたほうが体にとってはいいということも、嫌いなものを食べるくらいなら体がどうなろうと好きなものだけを食べることが正しいと考えるひともいるだろう。
正しさはさまざまな外的要因で変わるのと同時に、個人の判断でも変わってしまう。当たり前なんだけど、つい忘れてしまう。

昔は仕事がプライベートより大事で、長時間残業も厭わないような働き方が正しいとされていた。これは社会の傾向によるもの。
個人の判断によるものだと、後から入ったひとが効率よくしようと仕事のやり方を変えようものなら、今までそれをやっていたひとに睨まれた。効率という観点ではそっちのほうが正しいにもかかわらず。

だから、とくに年上のひとが若いひとに自分の考えややり方を押し付けるのはほんとやめたほうがいいと思う。
若いひとがおかしいんじゃないかと思うけど口答えできないくらいならまだいい方で、それが正しいんだと思いこんでしまうとその悪影響が怖い。

去年新卒で入社してきたひとが挨拶で「風邪などそういうつまらないことで仕事を休まないようにがんばります」と言っていて、平成生まれでそんなこと言うひとがいるんだとびっくりした。
それもたぶん昭和な大人たちから昭和的正しさを刷り込まれてきたんだろうなと思う。そのひとが部下をもつようになったときが怖い。
わたしなんか行きたくないというつまんない理由で休んじゃったりする昭和のおばさんですけど、どうもすいません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?