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存在の耐えられない薄さ

個室に入ると自動で流水音が流れ、便器から離れると自動で水が流れるというトイレがあります。
先だって、わたしはそういうトイレに入りました。すると、便座に座った途端に流水音が止まり、水が流れました。
用を足した後は、手動で水を流さなければなりませんでした。
わたしは透明人間なんでしょうか。

気を取り直して、美術館に参りました。平日の昼間でしたが、人気の展覧会だけあって、チケット売り場にはそこそこの数のひとが列をなしていました。
「2列にお並びくださーい」と係の人が言っています。こういうのイヤなんです。だって、結局窓口に行く段になると一列になるわけでしょう。
お連れさんがいれば、二人仲良く窓口に行けばいいですけど、ひとりのときは困ります。だいたい最後の最後になって、二列に一緒に並んでいた見ず知らずのひとに先を越されることになるのです。私の存在などはなから見えていないかのように。

わたしはありとあらゆるところで存在しないかのように扱われます。スーパーのレジはもちろん、駅の自動改札、郵便局の窓口……。

友人に圧倒的に存在感の強いひとがいます。
私と彼女は勤め先の最寄駅が同じでした。その駅は、住宅もあればオフィスもある街にあって、通勤時間帯は、駅に入るひとと駅から出てくるひととでごったがえします。
だから、コンコースを歩くのも一苦労です。前を歩く人との距離を置かないように必死でついていかないと、改札目指して反対方向から歩いてくるひとが私の前に入り込んできて、まっすぐ歩けないのです。必死に前のひとについて行っても、うまく歩けないことがほとんどでした。
でも、その友人が歩くと、ひとがサーッといなくなるのです。
不思議です。なんなんでしょう、この差は?

そんなとき苛ついてしまう余裕のなさが、わたしを悩ませます。それが故意ではなく、そのひとのうっかりだとわかっていても、ムカつくんですもの。

なぜにわたしはこうも存在をスルーされてしまうのか。
小柄だから。顔が地味だから。洋服が地味だから。見たくないと思わせるなにかがあるのか。もしかして身体が透けてるのか。

わたしは普段から注目されないようにして生きています。自意識過剰なので、見られていると思うと落ち着かないのです。
でも、見てもらいたいというときも確かにあります。スーパーのレジとか郵便局の窓口などでは、「わたしを見て!」と言いたいときもあります。ほんのちょっと、15秒でいいから。テレビコマーシャルのように15秒間ぱーっと見て、そうしたらまた本編に戻ってもらっていいから。どうか見てください、と。

でも、見てもらいたいときだけ見てもらうなんて都合のいいことは、社会では通用しません。
存在を消して生きているうちに、神様のおはからいでほんとうに透けてきたのかもしれません。
いや、透けてるなら透けてるでもいい。
なにをされてもムカつかない鷹揚な人間にわたしはなりたい。



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