見出し画像

照れてる場合じゃない

写真:IMDb

夢をかなえるとか、成功するとか、やりたいことをやるとか、言い方は色々ありますが、要するにそのひとが望む姿になるための指南がこの世を縦横無尽に、というか好き勝手に駆け回っています。

あきらめずにやり続けるだとか、運も才能のうちだとか、何もしないほうが却っていいとか……。
いやもう何を信じていいんだかって感じです。ダイエットだって、ひとによって糖質制限がよかったり、ライザップでひと修行してくるのがよかったりと、それぞれの体質(太り方)に合うやり方は違います。
だから、自分に合うやり方をいろいろとやってみればいいんでしょう。それなのに、いつまでたっても安直なタイトルの自己啓発書やビジネス書がなくならないのは、やっぱり人々が安直な救いを求めてるからなんでしょうかね。聖書の代わりに自己啓発本。

そんなことを考えていた今週、女性が自分のなりたい目標に向かって進んでいく映画を2本観ました。

彼女たちの何がすごいって、「照れ」が一切ないんです。照れとか気恥ずかしいとか、そういった概念が彼女たちの頭にはないように見えます。

ラッパーになるという夢をもつアフガニスタン難民の10代の女の子は、照れることなく「ラッパーになる」と公言しています。
雑誌かなにかから切り取ったスターの写真の顔のところに、自分の顔写真を貼っちゃったりとかして、かわいいんです。なりたい姿をそうやってハサミとセロハンテープを使って具現化していくんです。

わたしが彼女の年の頃はそんなことできませんでしたし、しようという思いもありませんでした。周囲から無理だとか、バカみたいだとか、おめでたいだとか、子どもっぽいだとか言われるのがイヤだったからです。
そんなこと言われるか言われないかわからないのに、そのたくましい想像力を別のところで活かせなかったのか、自分よ。

ま、そんなわたしと違って、彼女は照れずに夢を追い続けます。
深刻な問題もあるんです。でも、問題を問題と思ってあきらめるのか、問題を自分の力で何とかするのかという問いを超美人な先生から突きつけられて、彼女はあきらめることをやめます。そして、彼女の周りも動き出します。

その女の子の映画はこちら。
ソニータ

場所と時代がかわって、1960年代のアメリカ。
今以上に黒人(と女性)が差別されていた時代に、白人かつ男社会の中で自分の能力をフルに活かしていく黒人女性たちのお話。
ドリーム

ポジティブでハッピーエンドでヒーローズジャーニー的ないい映画です。
ここに出てくる女性たちも、やっぱり照れないんです。そして自分のできることをする。
たまに、差別に対して「しかたない」とわずかに思っちゃうこともあるんですけど、基本的にひるまない。

「私は◯◯大学の大学院でアレとコレを学んだ。黒人女性では初めてだ」
このセリフだけ書くとただの学歴自慢と自分自慢みたいですけど、そうじゃない。
その学歴に裏打ちされた実力があるということを示さなければ、自分のやりたいことができないで終わってしまいます。

黒人だから、女だから、特定の大学を出てないから、州法だから、NASAの規程だから……、これでもかというくらいろいろな制約があります。
でも、彼女たちは自分の経歴やできることを次々と相手に突きつけていきます。それでも制約を乗り越えられない。じゃあ、それをクリアしてやろうじゃないかと、動くんです。動いた先にもまた制約がある。でも、マトリョーシカ状態の制約をどんどんクリアしていこうとするのです。

できることはできると言う。できると思ってるのに「えー、無理ぃ」などという妙な謙遜はしません。
できることをはっきりと言うことで、彼女たちは壁をどんどん乗り越えていきます。
いや、自らがよじ登って壁を乗り越えたんじゃなくて、彼女たちによって周りのひとたちの心が動き、彼らが物理的にも動いた。
そのおかげで壁が低くなって、彼女たちはよじ登らなくても越えられるようになるのです。

仮にわたしがそのような優れた能力もっていたとして、そんなことが言えるだろうか? と考えると、たぶん言えないと思います。
そこには「照れ」があります。その照れは、自信が裏打ちされていないことに起因しています。
この程度で「できる」ことにしていいんだろうか、もっとできるひとがいるかもしれない、やってみたらできないかもしれない、こんなの当たり前レベルかもしれない、自信満々の勘違い野郎だと思われないか……。

その「照れ」によって、肝心のところで手を引いてしまうことがあります。
自分がやったほうが出る結果がいいはずだと思っているのに、アドバイスもせずに、ひとに任せてしまう。
自分のやり方のほうが、たとえば効率の面とか物理的な危険性が少ないといった面でいいはずなのに、伝授しなかったりする。
何かのはずみで、むっちゃおしゃれにキメたのに、それがなんだか照れくさくて、どこかをわざとダサくしちゃったりする。

そこには自信をもっている自分に対する照れがあります。この照れが自信をもってはいけないと自分を制御します。その制御は、自信満々で失敗することへの恐れから来ています。

「きみが白人男性だったら、エンジニアになりたいか?」
という問いに対して、そんなのは愚問だというふうに
「もうエンジニアです」
と答えちゃうなんて生意気でカッコイイじゃないですか。

生意気、大いに結構。
そうじゃないとIBMに、いやAIに仕事取られちゃいますからね!

今日のBGM:


この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?