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もうすぐのばあさまが考えること

病院のベッドで寝ているわたしは80歳をいくつかすぎているらしい。正確な年齢はわからないけれど、80代であることは確からしい。
べつにボケてるわけでもとぼけてるわけでもないが詳細がうすぼんやりとしている。
それからわたしは、もうすぐ死ぬことになっているらしい。

おとなになったらあれもできてこれもできるようになるんだろうし、つまんないことで悩むこともなくなるんだろう。朝起きられないとか、行かなければいけないところに合理的な理由なしに行きたくないとか思うこともなくなるんだろう。たぶん物心ついた頃から、おとなになれば迷いも悩みもない人間になるんだろうと思っていた。子どものわたしからは、おとなたちがそういうふうに見えたから。

でも、ティーンエイジャーになっても、成人しても、中年になってもその先も、なにも変わらなかった。
あたりまえだけど、できることは多少増えた。20代で社会で生きていけるようになった。30代でひとり旅やひとりラーメンといったおひとりさま行動ができるようになった。40歳をすぎておにぎりがつくれるようになった。50歳になる頃には、おいしくて感じのよい店かそうでない店かの区別もかなりの確度で判別できるようになった。65歳であれこれ、70歳であれこれ……。くだらんことばっかりだな。

だけど、死にそうなばあさまであるわたしは、横たわりながらあきれてしまう。できることは増えたかもしれないけど、こうしてぼんやりと考える時間に頭に浮かぶことは、80数年間なんら変わっていないということに。

どういうことに罪悪感を感じるかってことがぜんぜん変わってないのには驚きだ。子供の頃の教育や経験の影響っておそろしい。
それから、自分なりの倫理基準も基本的には変わっていない。老害だと言われないように、一生懸命最新の動向に合わせてきた。もともと精神論、根性論は嫌いだったので、時代とともにわたし自身が社会のなかでやりやすくなった。だけど、心のどこかで、たとえば「努力すれば報われる」とか因果応報みたいな根性論的なものを捨てきれてなかった気がする。頭では、それは違うとわかっているのに、強迫観念のように頭から離れない。
今こうして病気になって病院のベッドにいるのも、あんなに健康に気をつけていたのに、努力が足りなかったんだとか、きっとなにかの「因果応報」なんだとか思ってしまう。理性が罪悪感という感性に吸い取られる。

……というような内容の夢を見た。80歳すぎてんなら、当然病気にもなるわな。努力も因果応報も関係ないでしょ。ほんとにわたしっていくつになっても真面目だなと思った夢でした。

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