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桜へのとくべつな感情

東京の、わたしが住むあたりは、この土日が桜が見頃となっていた。入学式のころには散っちゃうね。
長い間、桜が咲くような気温になると意味もなく気分が沈むことが多かった。それを克服したのかたんに鈍感になったのかわからないけど、ここ数年はそんなこともなくなった。

なぜあんなにも春、とくに桜が咲く頃の春を忌み嫌っていたのか。春先にものすごく嫌なことがあったわけでもないと思う。しかし、べつにいいことがあったわけでもない。
ただ、新年度が4月から始まる日本なら多くのひとがこの時期に希望か絶望か、それと多少の緊張を感じる時期ではある。そんなときに何が起きても花が咲くというようなたくましさが鬱陶しかったのかもしれない。

たくましい桜は、ひとが去っただれもいない場所でさえ、無観客でも堂々と咲き誇る(ほかの植物だってそうなんだけど、そっちはなんとなくひっそり感がある)。
避難指示で無人となった福島のとある地域に行ったことがある。毎年春になると桜を見に大勢のひとが集まってねぇ、と案内のひとが教えてくれた桜並木があった。わたしが行ったときはその季節ではなかったのだけど、それでも見事な桜並木だった。今年ももうすぐだれもいないところで咲き誇るんだろう。

桜は日本にだけあるわけじゃないけど、節目の時期に咲くからなのか、やはり日本人の桜への思い入れは強いような気がする。
学校や公園には必ずといっていいほど桜が植えられている。企業の工場にも立派な桜並木があることがある。
個人宅にも桜が植えられているところは多く、枝がぐんぐん伸びて道路を隔てた向かいのお宅まで届いてしまっいるところがあるが、長年そうなので、お向かいさんと合意済みなのかもしれない。そうだとしたら、桜に関しては、ひとはおおらかになるのかも。
家を建て替えても桜の樹だけは残している光景はよく見かける。剪定して多少の縮小はしつつも、ギリギリな感じで桜が残っている。

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近所に古いアパートがあり、やはりそこにも入り口近くに大きな桜の樹があった。それがなければもう一部屋くらい増やせたのだろうけど、あえてそうしなかったというのがわかる。
だけど、ある日突然その桜の樹がぶった切られていた。アパートを取り壊すのかと思ったら、ある国のことばを話すひとたちが一棟まるまる使うようになった。桜があった場所は駐車場として使われている。

べつにそれを咎める気はない。日本人だって自然を壊して生活しているのだし、再開発という名のもとにバリバリと木が倒されることだって多い。雑草と言われる草花は引っこ抜いちゃうし。
ただ、桜という植物に限っていえば、節目に咲く花ということ以外になにが作用しているのかわからないけど、大事にしないといけないみたいな気持ちが日本人にはあるように思う。
だからバリバリと木を倒しても、罪滅ぼしのように桜を並木にして植えたりする。

年度替わりで新しいことが始まるシンボルである桜だけど、死のイメージもある。
「来年は桜が見られるかしら」なんてセリフがテレビドラマなんかでありがちだけど、わたし自身も病を宣告されたときがちょうどこの時期で、実際にそう思って、テレビみたいだなと思いつつ、当時の勤務先にあった桜並木をずっと眺めていた。おそるべし日本人のDNA。
センチメンタルになったわりにはこうしてのうのうと生き延びているわけだけど、復帰後は転勤になったので、「あの桜」は二度と見ていない。
てなこと思うと走馬灯のように当時のいろいろなことが……。ってまだ死なんわ。

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