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やることとやらないことの間

わたしはどちらかというと慎重派で、行動しないほうだ。
だれかがなにか企画やアイデアを出したとき、いいね、それ、やろうやろう! と盛り上げて100%肯定して進めることがあまりできない。
相手には見えていないけれど、「これをやったらこうなることもある」っていうのが見えてしまうことがあるので、つい水をさすようなことを言ってしまう。議会における野党議員のように、何に対してもめったやたらにいちゃもんつけてているつもりはないつもりなんだけど……。

ほかのひとにはいちゃもんに聞こえるわたしのことばは、「だからやめよう」と言っているわけじゃなくて、その今考えられるリスクなりなんなりが起こっても対処できる方法も併せて検討しながら進めようという意味なんだけど、あんまり伝わらない。
腰を折られると、感情的には否定された気になるのはしかたがないことだとも思う。その場で対処方法を明確に出せないわたしも悪い。

だけど、文句言われるかもしれないけど、反対されるかもしれないけど、怒られるかもしれないけど、やってみようよって思うときがわたしにだってある。

なんだかいつも「時と場合による」なんて言って結論を出すことから逃げているみたいだけど、でもやるかやらないか問題もやっぱり「時と場合による」と思っている。
想定されるリスク的なものが、単に自分が怒られればすむことだったり、あるいは反対を押し切ってでもやってみたいと思うことだったり、心強い仲間と一緒にやるときだったり。
そういうときは、やってみたいことはやってみたいから、わりに「やっちゃいなよ」的になる。

うまくいかなくても自分が恥かけばいいだけのことで、そしてそれがほんとうにやりたいことだったら、アドレナリンだかドーパミンだかわかんないけど、変な物質が分泌されて突き進んでしまう。そういうときにまるで普段の自分の分身みたいなひとが現れてくる。ほんとうに世界ってうまくできていると思う。

今、あることに取り組んでいる。ここって恥も外聞もなくやろうって決めたひとが集まるところのはずなのに、そうではないひとがいることに驚いている。
根拠のない心配や、単なる思い込みでしかないルールを持ち出して反対されるとけっこう疲労がたまる。

でも、自分は行動しないで上から目線でダメ出ししているときのわたしも、傍から見たらそう見えるんだろうなと反省した。

あらゆることを肯定して後押しできたら平和だなと思うのだけど、やっぱりそれだけでは危険なこともあるので、どっちがいいとか悪いとかは時と場合による(またか)。
だからいろいろな場面を想定できる力は必要だと思う。わたしも自分の見えない落とし穴を指摘してもらって助かったことが何度もある。

そういうポジティブな指摘と、ただの反対は区別されないといけない。一度でも自分のやりたいことを、周囲の抵抗にあいながらもやり遂げたひとは、むやみにひとのやることに反対や批判をしたり、根拠なくそれを潰そうとしたりすることはないんじゃないかな。気をつけよう。

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