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体力をつけて余裕をもつ

先だって道を歩いていたら、目の前を歩いていたひとが突然小走りで走り始めた。どうやら青になっている(でもちっこんちっこんと点滅を始めている)横断歩道を渡りたいらしいのだが、この距離じゃちっこんちっこんしてなくても微妙な距離なのだ。
案の定間に合わなかったけど、そのひとは間に合うと思って走ったらしい。ずいぶんと自信があるんだなと感心する。それとも、特別長い信号でもないし1本待っても大したことないと思うんだけど、視界に入った青信号になっている横断歩道は渡らないと損だとでも思うんだろうか。

駆け込み乗車するひとも、急いでいる以上に自信過剰なんだろうと思う。時間がないから無理して乗ろうとする、俺の足なら乗れると言う自信、結果無理をする、電車遅れる、みんなイライラする。その足の速さはほかで発揮してくれと思う。
わたしはあきらめが早いので、走って間に合わせるということは一切しないしできない。横断歩道でも電車でも、普通のひとでもちょっと無理して間に合わせるタイミングでもほぼ見送る。そもそも走るの嫌いだし、目の前でぷしゅーとドアが閉まったりクラクション鳴らされたりしたら恥ずかしいし、暇なんでそんなに急いでいることもないし。

話は変わるが、わたしは今の職種で下流工程のほうからだんだん上流に向かって転職を繰り返してきた。なぜ上流工程に行きたかったかというと、キャリアアップという大義名分もあったのだけど、いつもスケジュールがぎりぎりで最後には徹夜することもあるのは、いったいどこで遅れが出ているのかということを知りたかったのもある。だれかが怠けていて、それはどの段階なのか解明したかった。
しかし、そこは日本人、だれかが怠けているということはなかったし、むしろ皆さん遅くまで働いていた。だけど、それでもごく初期を除いて全体がぎりぎりで動いていた。
ではなんで遅れるのかというと、スケジュールの立て方がちょっと間違っていたからだ。ほんとうはもっと余裕を持たせてスケジューリングするべきところを、これでできるという自信過剰からぎりぎりの日程を組んでいる。みんなが頑張っても一つがうまくいかないと隙間がないからはみ出してしまって、そのしわ寄せがその先の行程に回ってくるのだった。余裕ってだいじ。

かくいうわたしは20年くらい前、担当業務の年間予算を作って失敗したことがあった。
前任者までは機械的に前年通りでやってきたらしく、ずっと余裕がありすぎる数字で余らしていたので、ちょっと余計なことして少し引き締めたらイレギュラーなことがあって一部予算オーバーしてしまった。
余る分にはいいけど、足りないといろいろめんどくさいことになるのが会社というところ。やっぱり余裕ってだいじ。よい勉強になりました。

それじゃあ引退した高齢者は時間があるから余裕があるのかというと、見ているとそうでもない。
毎朝整形外科医院の前を通るのだけど、いつも開院前からお年寄りの皆さんが列を作っている。見たところ急を要することがありそうなひとはおらず、おおかた電気を当てるとか膝にヒアルロン酸注射をするとかそんなところだろうと思う。
この光景を見るといつも、自分がこのくらいの年齢になって無職だったら、午後の中途半端な時間に行くようにしようと思う。現役世代のなかには、急に診察が必要になって仕事に行く前に朝一番で診察してもらいたいひともいるだろうし。ま、ボケずに覚えてたらだけど。

お年寄りの皆さんのように時間的余裕はあるはずなのに余裕がないのは、体が衰えてくると余裕がなくなるからなんだろうなと思う。順番を割り込んだりするのも、視野狭窄とか脳の衰えなどと同時に、他人のことを考えられるだけの体力がないからなんだと思う。だれだって具合が悪ければ自分のことしか考えられなくなるから、それは自然なことだろう。
わたしだって腹の手術をして立つことすらやっとだったとき、ひとを気遣う余裕なんてなかったもの。廊下を歩いてやっとこたどり着いたトイレにだれかと微妙なタイミングで鉢合わせになっても、こっちの方がタッチの差で早かったもんねーと謎の正当化をして譲ってあげなかったし。

きっと通勤電車で椅子取りゲームが繰り広げられるのも、仕事で疲れて体力がなくなって座りたい一心で、それで周りを見るという余裕もなくなっているからなんだと思う。皆さんおつかれさま。

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