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柔らかくなるといい

あるチェーンのコーヒーショップでお茶を飲んでいた。この店は1階がカウンター席だけで、テーブルが置かれた本格的な客席は2階以上にある。だから、混雑しているときは、注文の前に上の階に行って確認しないと席があるかどうかわからないし、お店のほうもそれを勧めている。
わたしも昼休みという限りある時間に来るので、あいていれば1階を使う。

この日は、いつもよりすいていた。いつもほぼ満席の1階のカウンター席にも、ぽこぽこと空きがあった。
品の良さそうなマダム二人連れが入ってきて、そのうちの一人が、先に席を見てきた方がいいかとお店のひとに訊いた。1階がすいていれば上の階もだいたいすいていることが多いのだけど(この店は4階まで席がある)、お店のひとはそうしてくださいと言った。マダムの一人が階段を登っていった。

このチェーン店では上の階にカメラを設置している店もあるのだけど、ここはそうではないから、レジに立っていると上の状況は正確にはわからない。そのマダムがわざわざ2階まで行くのは面倒くさいだろうなと思う。できれば一発勝負でいきたいだろう。お店のひともできればそうさせてあげたいだろうけど、そんなことしてあいてなかったらお客さんに怒られる可能性が高い(そのマダムが怒るかどうかはわからないけど)。

でも、よく考えたらそれくらいのことで怒るってどうなのか。世の中って、もう少し柔軟でもいいかもしれない。
日本ではサービスを提供する側と受ける側との関係は対等ではないという認識が双方である。あることを友人にされたときには許せたり穏便に終わらせたりできるけど、自分がお客の立場ときに同じことをされたら怒り出すケースが圧倒的に多い。だからサービス提供側もうっかりしたことを言えない。

怒るというのは、責任が自分ではなくその怒った相手にあると認識していることなんだと思う。だったらはじめからひとをあてにしければいいんだけど、ひとっていうのは他者からお墨付きみたいなものを得て安心したいのだ。それで空席があるかどうかなどといった事実ならまだしも、それ以外のこと、主観に左右されるようなことまで他人に訊いておきながら、期待と違うと不満に思ってしまう。

世の中が柔軟になるには、自分の選択には自分で責任をもたないといけないんだろうな。
でもやっぱり不満が出ることはある、にんげんだもの。不満を感情的に表に出さないで事実だけを言う努力をすることも必要かも。ときにユーモアを交えたり。そういうところ、一部の外国人は上手だなと思う。
でもユーモアをとっさに、しかも知らないひとの前で駆使すること、そしてそれを受けてユーモアで返すといったことは、そういう文化が根付いていないとけっこう難しいし、頭の回転の速さが必要とされると思う。お笑い芸人さんの、そういう意味での頭の良さは尊敬してしまう。

なんてことを書いているけど、昨日も電車の中でイライラしてしまった。
「まあ、無神経ね!」とプリプリするのは、相手に期待しているからで、勝手に期待して勝手にプリプリしちゃいけない。相手は言わなきゃわからないんだから、どうやって逆ギレされずに、、穏便にできればちょっと笑いの要素も含みつつ、そのぬれた傘をどうにかしてほしいってことを伝えればいいんだろうか。考えてみないとね……。

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