見出し画像

コミュニケーションの公平性

何度か書いているけど、わたしは愚痴を聞かされやすいタイプだった。「だった」と過去形になっているのは、もう聞かないことにしたから。お金を払って飲みに行って愚痴を聞かされるなんて、割に合わないじゃない。

さらに割に合わないことに、「そういう話は今後聞きたくないんだけど」となにかの話の流れで言ったら連絡してこなくなったひとがいる。
あるいはぐずぐずと煮え切らない悩みを聞かされ、わたしは単純なのでばっさりと「どっちかにすれば?」みたいなことを言ったら、やはりしばらく連絡してこなくなったひとがいる。
結局こっちが悪者になるのだ。

もっと相手に寄り添うべきだったのかなと少し反省したこともあったけど、愚痴や悩みを散々聞かせておいて、自分の意に沿うリラクションが得られなかったからといって切り捨てる相手も相手である。なんかちょっと理不尽というかしょんぼりしちゃう。

さて、愚痴というのはたいていが他人の悪口であって、自分がいかに被害者であるか、あるいは正しいかを力説するものである。
で、そんな話を聞いたところでこっちはその場にいたわけではないので、明らかな暴力とか嫌がらせでない限り、あんた(当人)にも問題があるんでは? ということを考える。相手に向かってはっきりとは言わないけど。
そんなことを思ってしまうから、余計に疲れるのだ。

愚痴を言っている当人に対するわたしの「あり方」としては、本心を欺いて無理に寄り添うことはしない。ただ、こちらの考えを伝える「やり方」は考えたほうがいいかも。
わたしの場合、単に言い方がきついだけという場合もおおいにありそうなので、相手の気持ちを必要以上に害することのないようにするなどしなくてはいけない。

そんなめんどくさいことしなくても、その場をしらけさせないように「うんうんそうね」と同情の表情をにじませながら赤べこ状態になって、共感の態度を示せばいいのかもしれない。または、いっそなにも言わないでひたすら黙って聞くとか(しかしこれがけっこう難しくて、ついついその本人が愚痴らなくてもよくなるような解決方法を出そうとしてなにかしら口に出してしまう)。
でもね、寄り添うってそういうことなんですかねとも思うのだ。自分の考えを押し殺して、相手が喜ぶように共感する「ふり」をしてあげることが寄り添うってことなんだろうか。
それってセクハラなどの嫌がらせを受けたひとが、その場の空気を壊したくないから抗議や拒絶をせずに受け入れる、または適当にかわすみたいなこと、あるいは嫌がらせの首謀者の側につく人間が、やはりその場の空気に合わせるために(または上限関係の都合から)「見てるだけ」を決め込んでいることと似ている気がする。

コミュニケーションにおいて、自分の考えをねじ曲げて相手に同調するのではなく、さりとて自分の考えを押しつけるのでもなく、自分の意見を、感情的・攻撃的にならず、しかし明確に相手に伝えるのはどうすればいいんだろう。

社会で生きていく上では避けられないことだけど、幼稚園や保育園から始まって今に至るまで集団行動を強いられてきた。
そして日本のような同調圧力の比較的強い社会集団に生きていると、自分の考えを安心して表明できる場が少ない。また一方で感情的・攻撃的にならず、かつ説得力をもって自分の意見を述べるスキル得る教育を、少なくともわたしは家庭でも学校でも受けなかった。
だから、嘘っぽく共感するか、全否定するかの2択になってしまいがちなのだ。

でも、意見が違うとき、議論になることがあってもいいんでは。考え方は白と黒しかないわけではないし。
「そういう考えもあるよねー」ときれいごとで適当に終わらせるのでもなく、かと言って相手を全否定したり、自分の考えを押しつけたりするのでもなく、ということをお互いにできればよい。

少し引いた視点で相手(話)の全体を眺めつつ、相手がそのように言う根拠や背景、思いなどにズームインしながら、一方で自分のことも引いたり近づいたりしながら眺めて、思い込みや誤解がないのかを点検する。イメージ的にはドローンみたいな感じ。

そういう冷静さと客観性が自分には足りないけど、リアルな社会でもネットのなかでも、知っているひとでも知らないひとでも、健全な社会的動物である「人間」になるには、常にそんなことをやりながら生きていくしかないのかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?