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古河散策

茨城県古河市のhibiで開かれていた落合芝地展を見に遠出したついでに、古河の町を散策してみました。観光の中心は比較的狭いエリアに集まっていて、少しの時間でも楽しむことができました。今回はうつわ番外編で古河の散策記録です。

古河の観光の中心は古河歴史博物館なのですが、古河の歴史をまず要約してみます。

古河は渡良瀬川の東岸の街です。JR古河駅の西側は城下町があったところで、今は東側に商業施設が集まっています。

そして地図で見ると古河は関東のど真ん中に位置しています。関東は日本最大の平野部ですが、太古はその平野を形成するだけの多くの川が流れていた土地です。現在の東京都東部・千葉県西部は多くの川が集まり水浸しでした。

その一帯に川が集まる原因だったのが、古河の東にある猿島台地とそこから南に至る下総台地。当時は西から流れてきた渡良瀬川・利根川が、この台地があるために流れを南へと変え、そのまま今の東京湾にあたる海へ向かっていました。

その両河川が、徳川家康の時代から幾度も大工事を経て、猿島台地を東へ突き抜けて太平洋へと流れこむようになりました。

昔を遡れば、海水面が高かった紀元前1万年頃は、古河の周辺まで海が進出していたそうです。縄文時代前期の貝塚が古河市内で発見されています。

縄文時代の後期には湾が後退し、古河は渡良瀬川流域の中でも多くの川が集まる地点となっていて、渡良瀬川の渡し場もありました。
古墳もこれまで9基見つかった記録があるそうで、水運・軍事で重要な地点である古河はこの辺りの主要な都市だったと思われますが、その歴史はあまり詳しくわかっていません。

比較的文献に出るようになりようやく様子が伺えるようになるのは、鎌倉にいた足利家(鎌倉公方)が15世紀に古河へ拠点を移して古河公方(こがくぼう)となった時代です。

関東管領の上杉家との対立と戦いの中で足利家を支援する勢力の多いこの地方へ移ったようです。
それから約130年、古河城を拠点に戦国時代まで古河公方は続き、鎌倉の文化も持ち込んだ古河はこの地方の中心地となっていました。

古河が歴史的に華々しかったのはこの時代で、あとは江戸時代になってからの古河藩で逸材を排出したことがあり、この2点が古河観光の基本となっています。

前置きが長くなりましたが、古河の観光は県道261号となっている旧日光街道から西に入った旧城下町地域が中心になります。県道から歴史博物館へ至る道は、石畳で整備されていて散策にはもってこいです。

古河駅西口から向かいます。

駅前のスーパー。

古河駅前から県道まで来た交差点です。この県道がかつての日光街道でした。

県道から曲がって入るここからが観光エリアです。左手に観光地的な装いのお店がいくつか並んでいます。

この米銀では食品が売られていて、お昼にはお弁当を買って中で食べることができます。

古河市歴史博物館へ向かう途中にある小学校ではバザーが開かれていました。

秋の並木道が心地よい雰囲気です。

歴史博物館に隣接する古河文学館。2階にはイタリアンレストランが入っています

さらに歴史博物館の方へ向かいます。水が石畳の道の傍を流れていて涼やかです。

歴史博物館の少し手前には鷹見泉石記念館があります。

鷹見泉石(たかみせんせき)は江戸時代後期の古河藩家老で、渡辺崋山が肖像画を描いています。この肖像画は近世の肖像画で唯一国宝指定されている著名なものなので、肖像を見たことはありましたが、その人物の功績や古河藩士だったことは古河に来て初めて知りました。

泉石が住んだ家屋を保存していて、中を見たり周りを一周したりできます。

鷹見泉石記念館を少し下ったところに古河歴史博物館があります。

この敷地は古河城の出城の一部でしたが、古河城は明治政府によって破却されてしまいました。また、同じく明治に始まった渡良瀬川改修により城跡は完全に消滅しています。

上の図でも分かるように、城域は埋められて河川敷となっているか、住宅地となっています。

博物館には、古河城が一番整備された江戸時代の姿を復元したジオラマが展示されています。残念ながら撮影禁止でしたが、それを見ると本丸に三層の櫓(やぐら)があるのが分かります。

その櫓が滝沢馬琴作・南総里見八犬伝の許我城(こがじょう)芳流閣のモデルになったようです。芳流閣の決闘は八犬伝の山場であり、その舞台にされるだけのランドマークだったのでしょう。

ちなみに八犬伝は古河公方があった時代が舞台となっています(三層櫓は江戸初期の建造なので当時は櫓がなかったと思われます)。江戸時代からすればとうに昔のこと、歴史感を強調するために万葉集の歌で使われた「許我」を使ったのでしょう。

博物館から県道へ戻る道すがらには、hibiの店主・高橋さんが教えてくれたお茶屋さん・内田茶園がありましたが、評判の饅頭は高橋さんの言うとおり既に売り切れていました。

町の主な通りには、こののぼり旗が掲げられています。なにも言いますまい。

県道261号からJR古河駅とは反対に曲がる県道9号は典型的な地方の道路です。

車がない時代の街道だったがために幅員が確保できず歩ける幅は狭いのですが、道の途中にはクリーニング店・肉屋・陶器展・八百屋が集まる地点もありました。以前はもっとこの辺りの生活を支える商店街だったのでないでしょうか。

また、この県道には永井路子旧宅、古河街角美術館、篆刻美術館と3つの展示施設が並んでいます。歴史博物館周辺と並び古河観光ポイントとなっています。

これらの施設が並ぶ県道が堤防に突き当たって上るところに、古河城に由来のある頼政神社があります。

やけに鬱蒼とした、ここだけ違う雰囲気の小山の中にあります。どうやらかつて古河城の土塁があった場所のようです。
古河城の南端には頼政郭(くるわ)という郭があり、その名のとおり頼政神社はもともとそこにありました。お祭りの時だけ南の川手門を開けて村民がお参りができたそうです。

今でも参道は掃除がされている形跡がありますが、場所自体が山奥のような雰囲気なだけあって、やたらと蚊が多く、写真を撮ろうとするだけでも刺されるくらいでした。掃除をする人は完全防備で来ているにちがいありません。

愛嬌のある顔をした狛犬。しかもよくみるとミノムシをぶら下げています。久しびりに蓑虫を見ました。

頼政神社の近くに古河城の船渡門の碑がありました。ここは今でいう港湾機能を有した所で船着場であり入国管理の場所でもありました。渡良瀬川の舟運で到着した貨物は、かつて川に面したこの場所を通って古河の町に入って行きました。

堤防へ上がったところには三国橋が渡良瀬川に架かっています。

広い河川敷の上を渡るので結構長い橋です。古代は当然ながら江戸時代にも橋はなく、渡し船で川を渡っていましたが、将軍の日光行幸がある時には船を何十艘も川に浮かべ、その上に仮設の橋を渡したそうです。その様子は歴史博物館で再現されていました。

橋を渡り切ると、少し向こうに東武日光線の新古河駅の駅舎が見えます。

駅前まで下りていくと、JR古河駅と比較して小さな駅であることが分かります。

下の写真は西口側の駅前。一応こちらの方がメインですが、のどかなと言える光景です。

この駅も平日の朝は通勤・通学の人たちで賑わうのでしょうか。


このように今回はhibiと落合芝地展を訪ねた機に、古河をまわり渡良瀬川を渡ってみました。大きな見どころがある観光地ではありませんが、どこか懐かしみのある雰囲気で、プチ観光をしながら歩くのが趣あるところです。

最後に、古河にはplumという北欧と日本のうつわなどを扱った雑貨屋さんもあります。こちらもhibiと一緒に訪れてみてください。

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