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私がPTSDと診断されるまでのこと、これからのこと

※トラウマに関しての怖い表現があります。

私は頻繁に小さい頃の記憶を(自分の意思とは無関係に)思い出す。頭の中に幼い女の子の泣き声が響きわたることもある。ごめんなさい、ごめんなさい、と。その度に動悸がして、吐き気がして、泣きたくなって、意識が朦朧とする。

PTSDなのでは、と思った。PTSDだったら、そうわかったなら、私は救われるんじゃないかと思った。

そうはいっても、自己診断は、危険だ。特に精神疾患は。私はそう考えている。特に確証もないのに「私多分こういう病気です」と他者(※医療や福祉の人を除く)に話すことは、自分自身の信頼を失う行為であると思っている。

…それでも「自分はPTSDではないか」という思いは、ここ数年、拭いきれなかった。

かつて主治医に聞いたことがある。「私、PTSDなんじゃないかなって思って…」と。しかし返事は「PTSDではないと思うな」だった。


何でだろう…。私はこんなに苦しいのに…。とモヤモヤしていたことを、先日、カウンセラーさんに打ち明けた。カウンセラーさんは、ひょっとして、という表情で、私に問いかけた。

「昔のことを思い出しちゃうとか、そういう症状のこと、お医者さんに話した?」

「あ…話してない…」

2人で笑ってしまった。そりゃ主治医に通じるはずもない。「昔のことを繰り返し思い出す」これがあまりにも当たり前すぎて、当然相手もそれを認識していると思ってしまっていたようだ。まったくもって境界線がぐちゃぐちゃだ。ちょっと学んだ…。

その日は妙にハイテンションだった。カウンセラーさんと話したあと、「自分がいままでされてきて辛かったこと」「繰り返し思い出して苦痛を感じる情景や記憶」をすべてリストアップした。

一部だけ抜粋。このほかにも十数個、一気に書いた。

・「死ね」と言われる
・頭を蹴られる
・「服を脱いでこい!」と言われる(実際に脱がされたわけではない)
etc….

作ったリストをカウンセラーさんに見せたら、何だか辛そうな表情で「よく頑張ったね」「大丈夫、絶対伝わるから」と言ってくれた。

…絶対なんて、流石にありえないだろう、とその時は思った。


次の診察日は、そのリストを持っていった。「先生、前にPTSDじゃないかって言ったのは、こういうことがあったからで…」と。正直、期待はしていたけど、それを振り払い、ダメ元でリストを主治医に渡した。

私の主治医は、暗い人ではないけど、あまり表情を変えることがない(だからたまに冗談を言われるとびっくりする)。何というか、飄々とした、淡々とした人だ。

だから、私は驚いたのだ。手渡したリストの内容を説明している時、主治医の表情がギュッと歪んだように見えたから。彼は言った。

「PTSDの可能性は、大いにあるよね」

「もし日常生活にまで影響を及ぼすようなら、資格を持っている人にPTSDの治療してもらう必要があると思う」

それを聞いて、私は安堵感に包まれた。ああ、私は、ちゃんと病気なんだ。PTSDなんだ。病気だから苦しいんだ。そして、それを認めてもらえたんだ。私が一番信頼している年長者である、主治医に。苦しいことをちゃんと伝えることができた。

カウンセラーさんの「絶対伝わるから」という力強い声が蘇ってきた。心が久しぶりに息をしているような気がした。

主治医の表情が変わった瞬間、私は嬉しかったのだ。それはあまり人間として良いことではないかもしれないけど。「伝わる」という感覚に飢えた人間にとっては、何よりも嬉しかった。


ずっと「病名」が欲しかった。

だって、ずっと「何であなたが病んでいるのか理解できない」と言われていたから。

これまで、いろいろなことを言われた。特に高校時代。
「頭が良いんだから、別に問題ないじゃない?」
「成績が良いのに、何をそんなに悩んでいるのか?」
「あなたのカウンセリングの枠を今にも他の人に渡したいぐらいだ」
「そんなのは、思い込みで何とでも言えてしまうだろ?」

…そして、高校の先生に笑いながら言われたこの言葉。
「あなた、自分が病気だと思っていたの?」

これらの言葉は、いまだに私の心にあって、思考を蝕んでくる。私の苦しみは、私自身の思い込みのせいであって、取るに足らない小さなことなのではないかと。

だから「病名さえつけば、私が本当に苦しかったことの証明になる」とずっと思ってきた。今回の一件で、それは叶えられたわけだ。

本当は、わかっている。
病名がつこうとつくまいと、私の苦しみは私のもので、誰かに勝手に判断されていいものではないということ。自分の苦しみを証明するために病名があるのではないということ。

私の思考はきっと歪んでいる。

それがわかっていても「自分が苦しんでいることの証明」が欲しかった。
証明したかった相手はもう目の前にはいないのに。
何のための復讐心なのだろう。

虚しい。私は、もう一生再会することのないであろう人たちと闘っている。その人たちから受けた悲しい言葉を振り払うために、もがいている。

こんな闘いは、本来、何にも必要じゃない。意味がない。

…きっと、ただ、わかって欲しかったのだ。
ただただ「辛かったね」「頑張ったね」と言って欲しかっただけなのだ。

本当は闘うとかどうでもよくて、ただ「わかって欲しかった」、それだけなのだ。


まあ、でも、全てが無意味というわけでもないだろう。むしろ大きな前進だ。

フラッシュバック…と言っていいのだろうか、自分の意思を無視して目の前に現れ続ける地獄のような記憶の数々。本当に怖いし、苦痛だった。

それを、主治医に伝えた。カウンセラーさんの支えを借りて。

そして、それは、きちんと伝わった。

あと私がやるべきことは、自分の苦しみを証明するために病名があるのではないということを心から理解して、そう振る舞えるようになること。

もう目の前にいない人と闘おうとしている自分に「頑張ったね」と声をかけて、休ませてあげること。

歪んでしまった自分の思考と向き合うこと。


先は長いけど、気が遠くなるほど長いけど、今回、ちょっとは成長できた自分を褒めてあげてもいいかもしれない。

編集後記:
ぐちゃぐちゃの文章になってしまった。けど、これが本心。
自分のダメな、歪んだ部分も全部書いてしまった。ちょっと怖いな。

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