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ゲンダイタンカが理解できない

題名のとおりで、ぼくはずっと所謂「現代短歌」が理解出来ずにいた。なんかうまいこと言えばいい、掛け言葉やオノマトペや折句など言葉遊びの妙はない、そういう意味では大喜利っぽい、挙げ句の果てには文字数合わせに日本語崩壊させてくる輩まで出てくる。
自然だの四季だのは放逐されたらしく精々桜とか雪が詠まれる程度。日本の季節はそんなに貧相ではない。
自分のことが一番かわいいらしく心象詠ばかり目立つ。ぼくに言わせれば赤の他人に同調したくなどない。ひとりでやって下さい。

歩み寄ろうと思えば思ったで、強烈なガードの壁が立ち塞がる。
まず言いたいことがわからない。この歌のオチが何なのか理解出来ない。ストーリーを汲み取れない。
次に言語センスの壁。「てにをは」には気を付けろと叩き込まれたぼくだが、その辺しっちゃかめっちゃかだ。推敲してこれかと問いたくなる。句跨ぎなど平気でやるし、575の数合わせのためなら手段は選んでない感じだ。
それで大喜利のていを取られた日には、「はい! 撤収!!」と言いたくもなる。


それにしても何でここまで異物に育ってしまったか。
ひとつには、師の不在がある。
何かしら師事している(しかも身近に)場合、ここまで荒れはしなかった(新鮮とか鋭い感性とかメディアが言うところの荒れ具合)と思う。
二つ目には、もう 世代が別なのだと言う、避けようのないさだめがある。
ゲンダイタンカと言われているものを発信している中心はだいたいがZ世代で、しょうわって何? という連中だ。それとぼくみたいな昭和世代がまともに話をしようと言うのだから、幾つも前提が必要になる。
短歌でそんな前提は書いていられない。


彼らの心うちも、使う言語も知らないのだから、ゲンダイタンカがわかる筈がなかったのだ。


某友人が「アートや建築とか、ゲンダイと付くと途端に理解不能になる。理解出来なくするためのゲンダイかとも思う」とこぼしていたが、それもむべなるかな、短歌とて近代まではするするっと理解出来ていたものが、ゲンダイとなるとガラッと理解出来なくなるのだから友人の言うことも一理ある。
ぼくはこの「短歌の大増殖」を「ブーム」にしてほしくなくて、というのも、ブームというものは大概にわかが適当に手を出して場を荒らして、責任も取らずに去っていくものだからだ。
まあ待ってりゃそのうち治まる熱病なら、4、5年待とうとも思うが、そのにわかに荒らされた庭園を片付けるのは残されたぼくらの仕事だ。


特にこの嵐の中で、文語体は大ダメージを受けると思っていて、文語体は豊富な語彙を持つ文体だから短歌に特に適しており、失くすのは適当ではない。
ちまちまと保護活動をして行こうと思っている。
まあでも口語体には口語体の良さもあるので二足の草鞋を履いて行こうと思っている。
季節詠は既に瀕死の様相なので、これは続けていく所存。


書き散らかすのもいいけど、後始末する人がいるってことをすこし考えた方がいい。



シキウタヨシ

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