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4.150円の愛

 ナースの制止する声を振り切って小走りで教わった部屋番号まで進むと、
簡素なドアには手配が間に合っていない様子の白紙のネームプレートが挟まっていた。
激しい動悸と恐怖を抑え込み、それでも消しきれなかった勢いでスライド式の重たい金属をこじ開ける。
勢いよく開き、跳ね返ってきたそれにぶつかりそうになるのを寸前で躱し、視界に室内が広がると、
病院独特の消毒エタノールの匂いに混じって、いつものユウリの香りがほんの少しだけ感じられた。

絵の具のような白と、そこにちょこんと座るユウリは僅かに驚いた表情で、
音の正体であるあたしを確認すると嬉しそうに緩く手を挙げた。

「わぁ、マリィどうしたのそんなに慌てて」
「どうしたのじゃない、あんたのお母さんに、入院したって聞いて」
安定しない呼吸を飲み込んで伝えると彼女は眉を下げ、わざとらしく口角を持ち上げる。
「もーやっぱりお母さんちゃんと説明しなかったんだ。
 うっかり階段から落ちちゃっただけなのにぃ....。皆大げさなんだよぉ。
 ほんとごめんね余計な心配かけちゃった」
ちょっとの打撲と軽い脳震盪だけだし、様子見で入院しただけで多分すぐに退院できるよ。

貼り付けたような笑顔でユウリは息継ぎをすることなくそう説明した。


相変わらず、嘘が下手だ。 
言い訳を沢山考えたんだろう。
すんなり話せるようになるまでその嘘を、何度も何度も反芻したんだろう。
一番最初に説明した時の、狼狽えるユウリが想像できた。



じゃあなんでその人は、そんなに死にそうな顔をしているの?


そう聞けたら、どんなに楽だろう。

『キバナさんが見つけて運んでくれたの』

たったそれだけで。
チャンピオンが階段から落ちたというケガに、ジムリーダーが仕事を長い時間放ってまで付きっきりで居る理由は
恋人だという理由があったとしても到底存在し得るとは思えない。

ユウリのベッドの隣に置かれた無骨なパイプ椅子には、この世の終わりみたいな表情をしたキバナさんが
だらりと弛緩した身体をなんとか両足で支えて座っていた。
深く俯き、微かに覗ける何も映していないような真っ暗な眼はさっきから一度も、あたしにもユウリにも向けられることはなく
一人だけ別の空間にいるような、そんな空気を彼全体が纏っている。

あたしは一体どうすれば、この地獄から解放されるの。

「そ、か。」
辛うじて絞り出した納得の意に、ユウリは安堵を滲ませた。
「ごめん、驚いて慌てて来たから何にもないんだけど、」
「ほんとごめんね、大丈夫。もうほんとにほんとにごめんねー、あとでお母さんに怒っとかなきゃだ」
「はは、何か欲しいものある?フルーツでも買ってこようか」
「えっほんと!?モモンジュースが飲みたい!あっでもオレンも捨てがたいなぁ」
「分かった、色々種類買ってくるからその中から選んで。好きじゃない物があればあたしとキバナさんで飲めばいいし」
行ってくるね。

限界はとっくに超えていた。
逃げ出すように部屋から出て、トイレへ駆け込んで吐いた。
腹の底から競り上がる憎悪は止まないのに
どうしてかまた涙は流れなくて、不思議と笑いが溢れた。


執着というものは酷く厄介だということを、
あたしは大人になって学んだ。

過ぎた執着は依存となり、正常な思考を腐らせる。
彼と彼女の関係には根底にそんな深い漆黒がこびり付いて、
向かう先は深淵だろうか。
きっとその時は、あたしも一緒に破滅する。


_________________



バトルはあまり、好きではない。

負けるのが怖いから。
勝てば勝つ程に重圧が鉛のように圧し掛かるから。
ポケモンが傷付くのが怖いから。
チャンピオンという称号に終わりが来るのが怖いから。

キバナさんの中での私を手放さない理由が、
チャンピオンであるからという事だけかもしれないから。


 2日で終わった入院生活から持ち帰った大きめのアタッシュケースの荷物を解いていると
幾分か元気を取り戻したキバナさんが手伝いに入ってくれた。
「2人して沢山休んじゃったから、明日から仕事大変そうだな」
そう言って穏やかに微笑む彼は、私の顔をすっぽりと覆い隠してしまう程大きな手で私の頭を撫でた。
彼が笑うと安心する。

 キバナさんの手が好きだ。
平熱の低い私とは相反する36.8分は、触れられた部分から火傷しそうな程熱を帯びて広がり、彼を強く感じられる。
抱き締めてくれる腕が好きだ。
ぶっきらぼうに見えて繊細なその腕は、壊れ物を扱うみたいに私を包んでくれる。

私と同じ香りを纏う髪も、熱情の込み入った眼差しも、低い弦楽器を奏でるような声も、
全部が、私の感情も身体も全てを支配して、絡め取って離さない。
愛情を向けられる度、確かに私の一つ一つが、彼に陥落していくのを感じる。


 片付けを終えた16時頃、日も沈まぬうちに並んだダブルベッドは心地よく冷えていて、次第に私達の熱を吸い込んだ。
開け放した窓から吹き込む春は、まだ少し冷たい。
「んーっ。やっぱりおうちが一番ですねぇ」
ぐっと凝り固まった身体を伸ばし、隣の彼に身を寄せる。
「そうだなぁ、オレ結局ずっと椅子で寝てたし、腰が折れそう」
「看護師さん、すっごい怒ってましたよ、キバナさんが帰らないって。
 でもキバナさんのご友人の病院だから追い出すに追い出せないしで、絶対付き合ってるってバレちゃいましたね」
「大人の権力はああやって使うんだぞぉ」
「わぁ、汚い大人だー」
子供のようにはしゃぎ、ゆったりとした時間が流れる。

「ね、今から少し眠って、起きたらなにかおいしいもの食べに行きましょう。マラサダとか。
 病院のご飯もおいしかったけど、こう、塩分が欲しいです」
抱き合って向かい合ったまま提案すると、彼の瞳が輝いた。
「めちゃくちゃいいなそれ、行こう。
 ついでにブティックに行って服も買って。
 あぁ、どうせバレたんだしお揃いの指輪でも買いに行くか」
「っ!!!!!」
予想外の言葉に勢いよく起き上がってしまう。
「えっ...キバナさんそれ、本当ですか」
「なに、嫌なの」
「....っ!!!!」
結構な音を立てて彼の胸めがけて飛び込んだ。
「すっっっごい嬉しいです!!キバナさん大好き!!」
「お、可愛い事言うなぁ」

今度旅行に行こう。
お互いに都合をつけて1週間くらい。
羽を伸ばしてカントーとかシンオウとかいろんな場所。
おいしいものを沢山食べて、いろんな景色を見よう。
バトルはちょっと休んでさ。遊び尽くそう。
そうして帰ってきたら、皆に付き合ってる事を話そう。
ダンデ、死ぬほど驚きそうだな。ホップとか泣くんじゃないか?
あいつオマエの事好きそうだもんな。
ユウリの両親にも挨拶して
そしてちょっとしたら結婚しよう。
オレ様最高なプロポーズするから楽しみにしておいて。
そうしたらもう、ずっと一緒に居よう。
大きな家を買って、子供もたくさん作って。
オレ達の子だから、きっと可愛くて、バトルが強いな。
同じタイミングでワンパチも飼ってさ、
子供と同じ年齢で育てていこう。
ユウリの事、世界で一番幸せにする。
いや違うな、世界で一番幸せなのはオレか。

まどろみの中で聞くキバナさんとの将来の話は酷く幸福で、
お見舞いでもらった1粒150円のモーモーミルクのキャンディーを、キバナさんがかみ砕いて半分こにして

「愛だよ」

なんて言って私の口に放り込んだ。
その欠片の、心を侵食するような甘ったるさを心地よく感じながら
私達はお互いにしがみついたまま眠りについた。



 肌寒さに目を覚ますと、隣で眠っていたはずのキバナさんの姿はなく、冷え切ったシーツからやけに哀愁が流れ込んできた。
彼の荷物はボールホルダーも財布も、携帯すら全て置きっぱなしで、玄関先の靴だけが消えていた。
変に胸騒ぎがして彼の部屋へ向かったけれど、冷たく閉ざされた扉の向こうに気配はなく、
彼のオフィスにも、ジムにも、街にも。


どこを探しても彼の姿を見つける事ができなかった。


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