見出し画像

「支え援ける」こと、そして「支え援けなければならない」こと

「支え援ける」こと、そして「支え援けなければならない」こと

「ケアリング/マザーフッド」展を見た。「いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?」、副題の最後についたクエスチョンマークはケアの対象や方向、「つながり」の輻輳性をとてもよく表現している。
感情の起伏をキッチン用品による序列化で示す女性、家事という名の日常のケアに従事しているこの女性はきっとケアを必要としている。
育児日記の中から思い起こす何気ない日常の出来事、そこにあるケアの内容は、親から子供へというだけのものではない。職場の人間関係や買物の際の出来事の中にも様々なケアが存在している。
徘徊する人、保護しようと懸命に話しかける人、意思疎通の困難さに苦闘する職員。だれが主人公か、主人公がいなくなったら、だれがケアを必要とするのか、しばし思案した。

ケア、介護、養護、これらの言葉が示す「支え援ける」内容には様々なものがある。アートを通して、ケアを見つめていたら、アートのフレームのことを考えた。絵画を収める額縁、映像作品を映し出す映像機器、美術作品を収蔵する美術館、みな作品を支えるフレームに過ぎないが、作品と「つながり」を持っている。アートがアートとして人とつながるために、フレームは大きな役割を担っている。フレームは人とアートの間にあって、人から見るとアートとの間を取り持ってくれている。また、フレームそれ自体をアートとして鑑賞する、そんな役割を担ってくれることもある。
アートとしてケアを取り上げること、それ自体もケアとアートとのつながりを気づかせてくれるのではないか。私たちが普段気にとめているケアには、「支える」人と「支えられる」人がいる。でも、「支える」人も支えられる必要がある。「支え」がどのようなものであるかに気づくことで「支えられる」こともある。キッチン用品だったエプロンが、労働環境をケアする「支え」に変わることもある。そんなことを伝えてくれたアートも「支え」になる。

ケアを考えるときには、だれがだれにというような「支え援ける」方向を気にしがちだ。だから、いつできるか、どこでできるかに困ることになったりする。どのようにと考えることにはなかなか考えが及ばないが、例えば、だれかの「支え援け」を「支え援ける」ことは、「支え援けられる」だれかにとっての「支え援け」となり得る。お互いに、つながりあって、支え援けあえるような関係、そうしたつながりのある関係や空間に「ケア」を考える時の視点を向けるべきではないだろうか。だれかを「支え援ける」ことがケアなのではなく、ケアを「支え援ける」だれかがいて、何かがあることが重要だ。そんなふうに考えることで、アートというものの創作活動としての意義と創作につながりをもって受容する活動の意義とを改めて考えることもできると思われる。今回の展示企画の意義は、単なるアートを考えることだけでもなければ、ケアを考えることだけでもないだろう。アートとケアとの「つながり」がある空間の中には、様々な「つながり」があり、そのことに目を向けることが、ケアを「支え援ける」ことの意義を気づかせてくれるきっかけとなるように思う。

この前の統一地方選挙の時、郵便で投票できるケースは「身体障害者手帳」か「戦傷病者手帳」を持っている人のうち障害の程度が重い方々や、介護保険の「要介護5」の方々に限られていることが話題になった。身体の障害や介護の基準は、日常生活への支障を踏まえている。ケアの内容は、その基準によって定まる。でも、それは選挙権の行使に必要なケアとは全く異なる。選挙権の行使に必要なケアは、選挙権の行使を保障するものでなければならない。私たちが考えなければならないのは、障害を持つ方々に対する「支え」だけではない。我が国の選挙制度に対する「支え」も必要である。

注 この記事は、調査研究事業のレポートとは性質を異にします。⽔⼾芸術館において開催された「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」に関しては、下記などを参照ください。

https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5188.html
2023/03/25付⽇本経済新聞「『ケアリング/マザーフッド』展 世話をする、される価値とは 家事、育児、介護……⼥性に偏る負担」

なお、この記事において間接的に紹介した展示作品として、以下を特に挙げさせていただきます(展示順)。

マーサ・ロスラー「キッチンの記号論」
AHA!「人類の営みのためのアーカイブ 『わたしは思い出す』」
碓井ゆい「要求と抵抗」
ヨアンナ・ライコフスカ「バシャ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?