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■【より道‐121】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_鹿之助と牛之助

1566年(永禄九年)尼子一族は、尼子経久つねひさの孫、尼子晴久はるひさの死からわずか五年の月日で滅亡してしまいました。

このような状況を室町初期に活躍した、ご先祖さまたちは、予想していたでしょうか。さすがの佐々木道誉どうよも、100年後の日本という国がこれほどまで、混乱の世になるとは、想像もしていなかったはずです。

それでも、佐々木一族のDNAは、最後の最後まで足掻き続けました。それは、尼子再興軍を結成して、月山富田城がっさんとだじょうを奪い返そうというものです。その尼子再興軍を率いたのは、尼子十勇士のひとりと呼ばれている、山中幸盛ゆきもりこと、山中鹿之助しかのすけです。

1566年(永禄九年)に滅亡した尼子氏から、どのように再興軍を結成したのか。そして、我が家に残る「尼子の落人」という言い伝えは、一体何なのかということを、記していきたいと思います。



■尼子勝久の擁立

1566年(永禄九年)に出雲国にある月山富田城が陥落すると、尼子氏の所領は毛利氏の支配下に置かれることになりました。城主の尼子義久よしひさは、自害することも許されず、幽閉されることになります。そして、その他の家臣たちは、出雲国から追放されて牢人になったそうです。

その牢人たちのなかで、ひとり、一族の再興を目指す者たちがいました。その中心人物が、山中幸盛ゆきもりこと、通称、鹿之助しかのすけです。

鹿之助は、尼子の家臣だった、横道秀綱ひでつなこと、通称、兵庫助ひょうごのすけと共に、京都の東福寺で僧となっていた、尼子勝久かつひさを還俗させて、尼子再興軍の大将として擁立しました。

尼子勝久かつひさは、尼子経久つねひさの次男、尼子国久くにひさの孫になります。つまり、新宮党一族の忘れ形見です。

尼子氏滅亡を振り返ると、5代当主・尼子晴久はるひさが、毛利元就もとなりの調略・風説に騙されて、義父で叔父の尼子国久くにひさ率いる新宮党の一族を粛清してしまったことが大きな要因です。あの、お家騒動が起きなければ、毛利氏は尼子氏の牙城を崩せなかったでしょう。

そんな尼子氏の血を引く尼子勝久かつひさを見つけ出した鹿之助らは、各地の尼子遺臣らと連携をとり、尼子家再興の機会をうかがうことになりました。


■第一次尼子再興軍

尼子勝久かつひさと鹿之助はじめ、数百人の尼子再興軍は、1569年(永禄十二年)、月山富田城奪還のため、隠岐島でその機会をうかがっていると、毛利軍が、九州に大軍を率いて大友軍と合戦をしているという情報を入手しました。

そして、その隙に伯耆国の山名祐豊すけとよと通じて、出雲国へ侵攻を開始します。いうても、最初は、数百人程度だった尼子再興軍は、出雲国に到着すると、その軍は、三千に膨れあがりました。この時に、松田誠保さねやすが合流したと思われます。
 
まずは、日本海側にある、新山城を征圧したあと16の城を攻略。その勢力は六千にも膨れ上がり、月山富田城に攻め込みました。さらには、米原氏と三刀屋氏が、毛利氏から寝返り、伯耆国では日野衆が伯耆全土にその勢力を広めていきます。
 
この状況に危機感を抱いた、毛利氏は、九州遠征から軍を撤退させて、主城
吉田郡山城へ帰還し、尼子再興軍を征圧するために、出雲へ軍を派遣します。一進一退の熾烈な戦いは、徐々に毛利軍が押し込み、最後は新山城が陥落。尼子勝久かつひさは落城前に脱出しましたたが、鹿之助は捕らえられてしまったそうです。
 
このとき毛利氏は、鹿之助を懐柔するため、2000貫の領地を与えると約束するも、鹿之助は受け取らず、さらには、脱出したそうです。


■第二次尼子再興軍

毛利氏の追っ手から逃れた鹿之助は、第二次尼子再興軍を結成します。その場所は、山名氏の所領、因幡、但馬、伯耆です。山名豊国とよくにを味方につけて、毛利軍に制圧された城を次々に落城させていきました。当時は、15の城、三千の勢力にまで膨れ上がったそうです。

ところが、山名豊国とよくにが毛利氏に懐柔されて、寝返ってしまったそうで、尼子再興軍と鹿之助は再び孤立。第二次尼子再興軍も失敗に終わりました。

すると、鹿之助は、織田信長のぶながを頼りに上京して面会を果たします。織田信長のぶながに気に入られた、鹿之助は、明智光秀みつひでの軍に加入して、但馬国に攻め込みました。その後、尼子再興軍は、各地で戦果を挙げると、羽柴秀吉ひでよしの軍に加入することになりました。

1578年(天正六年)、羽柴秀吉ひでよしが播磨国の上月城こうづきじょうを攻略すると、尼子勝久かつひさを城主として、鹿之助はじめ、尼子再興軍が入城、出雲国攻略の拠点にしました。

播磨国は、昔から赤松氏の所領でしたが、「嘉吉の乱」や「応仁の乱」を経て赤松氏は衰退していました。そして、戦国期に頭角を表してきた、宇喜多氏の勢力下となっていましたが、織田軍が尼子再興軍とともに中国地方に攻め込んできて、上月城を攻略したということになります。

しかし、このころ、織田信長のぶながに付くか、毛利元就もとなりに付くか、立場を明確にしていなかった赤松氏の一族がいました。それが、別所氏です。別所氏は、毛利側に付くことを決断すると、播磨国の三木城に籠城することになりました。


■上月城の戦い

1579年(天正七年)織田軍は三木城への攻撃を開始しますが、西国の覇者、毛利輝元てるもとは、別所氏への援軍をだすのではなく、三万の兵で上月城の攻略することを決断しました。それは、上月城が、播磨国、美作国、備前国の国境にある城で、播磨国からの退路を確保するには、重要な要所となっていたからです。対する尼子再興軍は三千の兵力です。

毛利軍が上月城に向かったと報を受けた羽柴秀吉ひでよしは、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援を支援しますが、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍は兵糧攻めにでました。

しかし、尼子再興軍の後方には、織田軍がいます。必ず援軍が来ることを信じていました。しかし、織田軍の主力たちが援軍を率いて中国に進出し向かった先は、三木城でした。

尼子再興軍は捨て駒にされてしまったのです。ふだん、織田信長のぶながの言うことに絶対的に服従していた、羽柴秀吉ひでよしが、なんとか上月城へ援軍を送るようにと織田信長のぶながへ懇願したそうですが、その方針は変わらなかったそうです。

仕方なく、羽柴秀吉ひでよしは、上月城を捨て、脱出するように促したそうですが、尼子勝久かつひさはじめ尼子再興軍は、これを拒否。最後まで、徹底抗戦をしますが、最後は兵糧が尽きて城を明け渡しました。

降伏の条件は、尼子勝久かつひさの切腹、鹿之助と立原久綱ひさつねは生け捕られ人質となります。その他、毛利氏に敵対した多くの者は処刑されてしまいました。

人質となった鹿之助は、備中松山城へと連行される途中、備中国阿井の渡で、毛利氏の家臣に謀殺されました。


■尼子の落人の言い伝え

我が家のご先祖様に、長牛之助という人物がいます。この方は、上月城の戦いの武功で、豊臣秀吉ひでよしより、備中国新見荘西谷村を知行したと言われています。どこかに、感状があると聞いたことがありますが、じぶんは、見たことはありません。

我が家に残る「尼子の落人」という言い伝えは、この長牛之助うしのすけのことだと、じぶんは、思っています。

あの当時、山中幸盛ゆきもりも通称、鹿之助と名乗っていました。これは、かつて、月山富田城を中心に尼子十旗の支城といわれた白鹿城しらがじょうからとっているのではないかと想像したりもします。また、尼子十旗の支城には、牛尾城うしおじょうというのも、ありましたので、牛之助も通称だったのではと、想像を膨らませます。

他にも、平安時代末期に長谷部信連のぶつらが流された、伯耆国日野郡、現在の鳥取県日南町には、九牛士きゅうぎゅしの伝説というのが残っていまして、それは、月山富田城の戦いで敗れた、尼子の残党が、現在の自照寺じしょうじに訪れたというものです。

この自照寺じしょうじと父の実家、岡山県高瀬村は、山を越えた隣村に存在しますので、このときに、「尼子の落人」が伯耆国から備中国の国境の村に逃げ延びた可能性は十分にあると思っています。

そして父の実家には、「尼子の落人」の墓があり、長谷部氏の隣には、松田氏が住んでいます。松田誠保の子孫になります。

現在の高瀬村は過疎化が進み、父は故郷をでて千葉県の浦安に住み、じぶんはというと、神奈川県の川﨑に住んでいます。

それでも、「尼子の落人」の言い伝えは、いまもなお受け継がれ、この「息子へ紡ぐ物語」を未来の子孫へ紡ぎたいと思っています。

行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し

方丈記


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