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■【より道‐40】語られない日中戦争_蒙彊と張家口③

日中戦争が起きた1937年(昭和十二年)頃の日本人は、「中国人蔑視」をしていたようです。自分はというと戦争を全く経験していないのになぜだか知らないですが、中国や韓国・北朝鮮に良い感情をもっていません。何故なのでしょう。DNAがそうさせるのか、それともメディアがそうさせるのか。なんとなくの歴史観がそのように判断させるのか。とにかく、なんとなくですが、あまりよく思っていません。

調べてみると、昔の人も同じような感覚だったようです。「中国人は個人本位の国民で愛国心がない」「不潔の都会、虚偽の人民」。「支那には家ありて国なく、支那人には孝ありて忠なし」と批判している日本人もいたようです。

たしかに、中国には、嘘をつくイメージがあったりもします。過去に食品偽装問題や、今回のコロナ禍でマスクが粗悪品だのワクチンだって効くか効かないかわからないものをつくっている等の風潮もあります。自分は、すくなくとも、スーパーにならんでいる中国産の食材は買わないわけです。日本製は「高くて安心」で中国製は「安くて心配」ブランドイメージなのか、日本人が求めるクオリティの価値観と乖離があるのかわかりませんが、そんな感じです。

しかし、中国は儒教の国です。日本は、中国に憧れ多くの事を中国から学んできました。王道楽土の「徳」を説いたのは孔子の思想ですし、このような感情になるのはなぜなのでしょう。

色々と調べると国民性の違いに、「利己的」と「利他的」の違いを訴えている文章などもありましたので、ようは、今も昔も日本人は武士の精神をもっている人が好きなんでしょうか。

個人的に大清帝国は、多民族国家であるということ。欧米に侵略されたということ、人口が多いこと。阿片による民度の低下、食糧難、貧乏が故のような気もします。「金持ち喧嘩せず」「貧すれば鈍する」ということわざがあるように、多くの国民が「利己的」に物事を考えなければ生きていけなかったのかもしれません。事実、自分のブルジョア中国人の友人はとても思いやりがありやさしいです。

しかし、数十年前の日本人は「王道楽土」「大東亜共栄圏」と理想を掲げながらも価値観を強要して押し付けたわけです。それに多くの人が反発し抗日運動が盛んになりました。しかし2021年の東京オリンピックでは多様性を受け入れようと日本は世界に発信しました。人それぞれ容姿も違えば、文化や先祖、大切にしている考え方もちがうけど認め合いましょう。ということです。

アプローチの手法をかえたのは、時代が経ち法や仕組みが整っているからでしょうか。資本主義が定着して、貧乏人の不満を発散させるため金持たちの防衛手段なのでしょうか。人類の人格が成長したのかもしれません。自分には、よくわかりませんが、個々人が人に迷惑をかけずに好きなことをして、心豊かな人生をおくれるのであれば、それは、それでよいです。自分は、中国産の食材は買わないくせに、美味しい中華料理は食べたいわけです。人間なんてそんなもんです。


【蒙古連合自治政府】
蒋介石が共産党軍に捕らえられると、共産党軍は、労働者・農民・中階級・民族資本家などが一致団結して日本帝国主義の侵略に対抗しようというものが提唱されました。それまで、蒋介石の国民政府軍は、共産党軍をなによりも敵視していましたが、矛先を日本に向けてしまうわけです。この方針が決まってからの蒋介石の覚悟、本気度はすさまじいものがありました。

実は、盧溝橋事件は勃発してから4日後には、停戦協定が結ばれました。近衛内閣も「不拡大方針」を閣議決定しています。しかし、これを許さなかったのが、共産党軍の毛沢東です。全面抗戦を呼びかけ、国民政府軍の蒋介石の重い腰をあげさせて日本帝国に武力行使を行うという方針を決めました。

まず中国軍は、北京と天津の電線を切り通信ができないようにして日本軍を襲撃します。挑発にのった日本軍はすぐにやり返し敵陣を占領して、中国側に軍隊を撤退するよう最後通告をするのですが、中国軍は応じません。日本軍は、民間人に被害がでないよう、上空からビラを撒いてから北京に総攻撃を開始します。やられたらやり返す的な、倍返しですね。

すると決定的な事件が起きます。日本はこの頃、中華民国と満州国の国境緩衝地帯として河北省に冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふという傀儡政権をつくっていたのですが、この自治政府の中国人保安部隊が天津の在留邦人や軍人を虐殺して中華民国に寝返るという「通州事件つうしゅうじけん」が発生したのです。この事件をきっかけに暴支膺懲ぼうしようちょうと、「暴虐な支那人を懲らしめる」という言葉が、軍部や日本国民のあいだで合言葉になったそうです。

その後、やられたらやり返す的な発想で、天津を制圧した日本軍は、冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふのあった河北省に進軍することを考えましたが、多くの中国軍が集結していたために、すぐ隣の察哈爾省ちゃはるしょう、現在の内モンゴル自治区を攻略し蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふを建国し中国軍との衝突に備えることにしました。

この出来事は、1937年(昭和十二年)の話ですから、まだ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、満州国の哈爾濱はるぴんで生活をしていた頃になります。3年後の1940(昭和十五年)年9月に蒙古連合自治政府で働くために張家口へ引越すと、お祖母ちゃんと赤ちゃんは2ヶ月後に亡くなってしまいました。お父さんの妹、自分の叔母さんは生後4日。お祖母ちゃんは26歳の若さで天命を全うしたのです。


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