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■【より道‐89】戦乱の世に至るまでの日本史_西の京「大内文化」

前回に続き、大内氏についてです。

■大内文化
1363年(貞治二年)大内弘世(ひろよ)が、二代将軍・足利義詮に謁見するため、上洛すると、京と長門と周防の地形が似ていることから長門と周防を「西の京」とすべく京風の市街整備を行うとともに文化人を招いたそうです。

その財源は、明朝との貿易や交流により、大陸の文化もとりいれながら、倭寇の取り締まりなどで、明や朝から多額の報酬を得ていたそうです。そのような、様子が、足利義満からすると、不満の理由だったのかもしれません。

その後、1465年(寛正六年)に家督を継いだ、大内正弘(まさひろ)は、大内文化を奨励し、1467年(応仁二年)「応仁の乱」のときは、京の街に逃げ惑う、多くの公家たちをかくまったともいわれています。


■ 応仁の乱
14代当主・大内政弘(まさひろ)の母は、山名持豊の娘で、大内氏と山名氏は親族関係となっていました。1391年(明徳二年)の「明徳の乱」で没落した山名氏でしたが、1399年(応永六年)の「応永の乱」で大内氏の反乱を鎮めたことで復活して、かつ、大内氏と親戚関係にまでなっているので、この時代の家格というものは、ほんと不思議です。

1467年(応仁二年)足利義政よしまさの息子、足利義尚よしひさと足利義政よしまさの弟、足利義視よしみとの間で起きた、家督争いを理由に、有力武家たちが東西に分かれ戦った「応仁の乱」が勃発しました。

大内正弘(まさひろ)は、当然、西軍大将、山名持豊に属し、歴史上因縁のある九州の少弐氏と戦いますが、途中、総大将の山名持豊が亡くなってからは、西軍の大将として戦い続けました。

「応仁の乱」は、足利義尚が新将軍になったことで、収束していきますが、そのときに、大内正弘(まさひろ)は、周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されたそうです。


■船岡山合戦
1511年(永正八年)の「船岡山合戦」は、あまり知られていない戦ですが、この辺りを学ぶことで、戦国期に突入する理由がよくわかるかもしれません。

1467年(応仁二年)から11年間続いた「応仁の乱」は、足利義尚が九第将軍に就任したことで、とりあえず終息することになります。しかし、多くの資金や人命を賭した戦に、各武家たちの混乱も続きました。というよりも、「応仁の乱」前後に起きた、数々の名家たちの家督争いが戦国期に突入した理由のようです。

その内容は、後日、改めるとして、「船岡山合戦」は、足利義尚の後継、10代将軍・足利義稙よしたねと第11代将軍・足利義澄よしずみの家督争いによる戦いになります。

1489年(長享三年)第9代将軍・足利義尚よしひさが亡くなると、第8代将軍・足利義政よしまさの弟、足利義視よしみの息子、足利義稙よしたねが家督を継ぎました。

足利義稙よしたねは、先代から続く、六角高頼たかより討伐に自らも出陣し権威を奮いますが、足利義稙よしたねが京を留守にしている間に、細川政元まさもと・日野富子とみこらが、足利義澄よしずみを第11代将軍に擁立しました。「明応の政変」です。

その後、足利義稙よしたねと足利義澄よしずみが武力衝突したのが「船岡山合戦」ということになります。結果は、足利義稙よしたねが勝利し、軍事力を支えたのが、大内義興(よしおき)ということになります。

ご先祖様の長谷部元秀さんは、この時の武功で、大内義興から備前国の児島庄を賜ったということでしょう。


■余談と想像
じぶんの六代前の祖、長谷部與左衛門さんや、おじいさんの長谷部與一さんは、「與」という字が使われています。過去帳をみると、與左衛門さんと名乗るご先祖様はもう一人いました。

日野にある「厳島神社」には、長谷部信連の「信」の字が継がれている様子がありましたが、我々のご先祖さまには、使われていません。

唯一、長谷部與左衛門さんが、娘を分家させたときに「信谷」という名を与え、長谷部信連の「信」の字と、長谷部の「谷」の字が継がれていますが、諱として考えると、「信」の字や「連」の字を継いでいるご先祖さまが、もっといてもおかしくないはずです。

じぶんは、この「與」という字は、大内義興の「與」の字から続いているのではないかと思っています。尼子経久の三男、塩谷興久の「與」の字は、大内義興の「與」の字を授かったといわれています。こんなところからも、「尼子の落人」という言い伝えの香りを感じます。

また、まったくもって、トンチンカンな発想ですが、岡山県高瀬村の近隣には、「たたら製鉄」という、刀工文化があります。もののけ姫に登場しているので、ご存じの方も多いとおもいます。

この「たたら」という名ですが、大内氏をたどると「多々良」姓を名乗っているので、なにか関係があるのかもしれません。たんなる偶然だとは思いますが、なんだか、不思議な縁を感じてしまいます。


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